1.コリント教会の実情と愛の賛歌
・今日、私たちはコリント人への第一の手紙13章を読みます。この箇所は愛の賛歌として有名です。「愛は忍耐強い、愛は情け深い、愛はねたまない・・・」。美しい言葉が迫ってきます。しかし、この13章だけを読んでも、聖書の真意は伝わりません。何故ならば、愛の賛歌を書かざるをえないような状況がコリント教会にあったことを理解しないでは、愛の賛歌の本当の意味がわからないからです。コリントへの手紙の最初を読みますと、教会の中に「私はパウロに」、「私はアポロに」という派閥争いがあったことがわかります。5章には「父の妻を自分の妻にしている」人のことが出てきます。世と同じような道徳の乱れが教会内にあったのです。教会内に財産をめぐる争いがあったことも、結婚をめぐる混乱があったことも、肉を食べても良いかについての論争があったことも記されています。11章を読みますと、金持ちは金持ち同士で集まって会食を行い、貧しい人が教会に来てみたら食べるものは何も残っていなかったと記されています。これが主の晩餐だろうかとパウロは嘆いています。コリント教会はあまりにも多くの問題を抱えていました。そこには愛が欠けていました。だから、パウロは「あなた方に今一番必要なものは、預言でも異言でも奇跡を行う賜物でもなく、愛なのだ。愛が欠けていることこそ最大の問題なのだ」と書き送っているわけです。
・今日、私たちは愛の賛歌を12章27節からの区切りで読みます。そのことによって、パウロの言う愛とは何かがより鮮明に浮かび上がって来ます。12章でパウロは「教会はキリストの体であり、あなたがたはその部分なのだ」と述べます。パウロは言います「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました」(12:28)。教会の中で、人はいろいろな役割を持ちます。主の復活の証人である使徒、その使徒から教えられて説教する預言者、子供や新来者を教える教師、彼らは教会を指導する役割を持ちます。次に賜物を持って教会に仕える人々のことが出てきます。奇跡や病気を癒す賜物を与えられている人、困った人を援助する人、会計や管理的な事柄に責任を持つ人、異言を語る人もいます。
・さまざまな人々の奉仕によって、教会活動は多様に、豊かになります。しかし、ここで人間の罪の問題が出てきます。指導者たちは自分たちこそ教会の頭脳であり、手足ではないと威張り始めます。奉仕者も、私はこんなに奉仕しているのに、あの人は何もしないではないかと言い始めています。賜物が人を攻撃し、貶める方向に向かい始めています。部分同士が争っていては体は機能しないではないか、教会がキリストの体になっていないではないかとパウロは言います。「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」。(12:31)。使徒や預言者の働きは大きいし、必要です。他者を援助し、慰める賜物は偉大だし、教会に欠かせないものです。しかし、私たちにもっとも必要なものは愛という賜物、お互いが仕え合うことを可能にする恵み、この賜物こそ、熱心に求めるべきものであり、この愛が無ければ全ての行為は空しいのだとパウロは述べていきます。それが13章の愛の賛歌なのです。恋愛や友情や親子の愛のすばらしさが歌われているのではありません。
2.愛が無ければ全ては空しい
・コリントの人々は各々の賜物を大事にし、神秘体験を誇り、自己犠牲を賞賛しました。しかし、パウロは言います「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル」(13:1)。どらやシンバルは人を陶酔に導くための道具として用いられます。単調なリズムを繰り返し、繰り返し、聞くことにより自己催眠が始まります。黒人教会で歌われるゴスペルも同じ働きをします。そこでは、同じ節が何度も何度も歌われ、それが会衆をエクスタシーの境地に招いていきます。しかし、それは一時的な陶酔であって本物ではないとパウロは言うのです。パウロは続けます「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(13:2)。教会で熱心な証しがなされ、燃えるような祈りや讃美が捧げられても、それが自己陶酔に終わったら全ては空しいではないか。たとえ牧師が熱情あふれる説教を行って会衆が涙を流しても、その場限りの感動に終わるとしたら、本当に神の言葉が語られたのかとパウロは言っているのです。さらに続きます「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない」(13:3)。アラブのテロリストは信仰ゆえに自爆行為をして敵を殺しますが、それが何か良いものを生み出しているでしょうか。生み出すのは混乱と恐怖だけです。愛が無ければ、全ての行為、山をも動かす信仰さえも無益なのだと彼は言います。
・そしていよいよ13章4節からの有名な言葉が始まります「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない・・・」。ここには愛に関する15の定義がありますが、そのうち八つは否定形です。「ねたまない、高ぶらない、いらだたない・・・」、何故否定形で書かれているのでしょうか。コリントの人々は「ねたみ、高ぶり、いらだつ」存在だったのです。だから、「ねたみをやめなさい、それは主が喜ばれることではない」、「高ぶることをやめなさい。それは主が喜ばれることではない」、「いらだつことはやめなさい。それは主が喜ばれることではない」とパウロは言っているのです。ここにあるのは単純な愛の賛歌ではありません。この愛の基準に照らしてみて、「それでもあなたは自己を誇るのか、他者を貶めるのか」との問いかけがなされているのです。
3.教会の基盤としての愛
・今日の招詞として〓コリント10:23-24を選びました。次のような言葉です。「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」。
・すべてのことは許されている、コリント教会の人々の口癖でした。私は自由だ、何者にも束縛されない、現代の私たちも同じことを言います。しかし、パウロはキリスト者の自由は、他者への愛によって束縛されると言います。何故ならば、主があなたのために死んで下さったからあなたは自由になったのだ、それは購いとられた自由、責任を持つ自由だからです。「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない」、愛は自己ではなく、他者の利益を求めます。ヨハネは言います「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです」(〓ヨハネ3:16)。イエスが死んで下さった、その事実の上に成り立つ愛が、神の愛=アガペーなのです。
・ここまで見てくると、愛=アガペーとは、私たちの中に本来存在するものではないことがわかります。私たちの中にあるのは自己愛=エロスだけです。だから自分の子どもは愛せても、他人の子どもは愛せない。自分の兄弟は愛せても、他の人には関心が持てない。しかし、神はあなたを子として下さった。その時、教会の兄弟姉妹も同じ子として、あなたの兄弟姉妹になるではないか。それなのに、何故兄弟姉妹が困惑するような自分勝手の行動が出てくるのかとパウロは問いかけています。
・私たちがこの愛を実行することが出来るとすれば、それはイエスの十字架を仰いだ時だけです。イエスは彼のためにも死んでくれた、そうであれば私は彼をもう憎めない。「愛は寛容である」、神がどのようにあなたの罪を赦されたかを考える時、あなたも人の罪が赦せるのではないか。「愛は情け深い」、神はあなたが絶望しているとき、声をかけてくれたではないか、そうであればあなたも絶望している人のために何かが出来るのではないか。「愛はねたまない」、神はあなたが救われて希望に生きることを喜んで下さった、それならばあなたも隣人の喜びを共に祝えば良いではないか。「神があなたにして下さった事をあなたも人にしなさい」、それが愛なのだということです。この愛は信仰なしには実現不可能な愛なのです。
・最後にパウロは言います「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」、しかし「愛は決して滅びない」(13:8)。終末の時が来る、神の国が来る。その時、神は私たちと共にいます。もう預言を通して神を知る必要はありません。神はここにおられるのですから。もう異言を通して神の声を聴く必要もありません。神が直接語られるのですから。神についての知識を教えてもらうこともありません。今目の前におられるのですから。しかし、その終末の時にも「愛だけは残る」。何故ならば神は愛そのものであるからです。教会とはその終末を先取りする共同体です。どのような問題を教会が抱えていようが、どのように不完全であろうとも、どのように醜い現実がそこにあろうとも、教会は神の国共同体であります。だから、私たちはこの教会から離れない。それはキリストの血によって購われた共同体なのです。ですから、教会に生じるどのような問題も、愛によって解決可能なのだとパウロは私たちに呼びかけているのです。私たちは自分の救いを求めて教会に来るのではありません、私たちはもう救われているからです。私たちが教会で求めるべきは他者の救い、隣人の喜びなのです。その隣人との間を規定する言葉こそ愛なのです。