1.イエスのエルサレム入城
・イエスはユダヤの過越祭りの時に、エルサレムに入城されました。紀元28年3月から4月にかけてのことと思われます。その時、エルサレムの群集は道に棕櫚の葉を敷いて、イエスを歓迎したと伝えられています。そのため、イエスがエルサレムに入られた日曜日を棕櫚の主日と呼びます。教会暦では、今日4月9日が棕櫚の主日です。エルサレムの群集はイエスを歓呼して迎えましたが、やがてイエスに失望し、「十字架につけろ」と叫び出します。イエスは、木曜日に捕らえられ、金曜日に十字架につけられます。今週、私たちは受難週を迎えます。
・マルコはイエスのエルサレム入城の模様を11章で描きます。エルサレムを目指して、旅を続けて来られたイエス一行は、エルサレム郊外のオリーブ山のふもとまで進んで来られました。近くにベタニア村が見えます。長旅でイエスはお疲れになったのでしょうか。二人の弟子に「向こうの村へ行ってろばを借りて来なさい」と言われました。ベタニヤであれば、イエスと親しかったマリアとマルタが住んでいますから、イエスの為にろばを用立ててくれるに違いありません。イエスは弟子たちに注意を与えて、遣わされました。「だれかが『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」と。
・弟子たちが村に行くと、表通りの家に子ろばがつないでありました。弟子たちは村人に断った上で、その子ろばを借り、イエスの元に連れてきました。イエスはそのろばに乗られて、エルサレムに入城されます。エルサレムでは、高名な預言者が来るとして、人々が集まって来ました。不思議な力で病を治し、悪霊を追い出されるイエスの評判は都まで伝わっていました。もしかしたら、この人がモーセの預言したメシアかも知れない、都の人々は期待を持ってイエスを歓迎しました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように」(10:9-10)。「ホサナ=私たちを救ってください、ダビデの国を今こそ建ててください」と群集は叫びました。「あなたがメシアであれば、このイスラエルから占領者ローマを追い出し、再びダビデ王国の栄光を取り戻して下さい」と群衆は期待して叫びました。その声の中を、イエスは一言も言われないで、進んで行かれます。
・イエスは解放者としてのメシアを求める、人々の期待を知っておられました。その期待に応えるにはどのようにしたら良いのか、馬に乗って、威風堂々と入城する方法が普通です。ローマの将軍は4頭立ての戦車に乗って都に入りました。イエスがメシア=王であられるならば、その方がふさわしい。王は軍馬に乗って堂々と入城すべきです。しかし、イエスは馬を選ばれず、ろばを選んで、エルサレムに入られました。ろばは風采の上がらない動物です。愚鈍と卑しめられ、戦いの役に立たない動物です。王にふさわしい乗り物ではありません。しかし、イエスはあえて、ろばを選んで、エルサレムに入られました。
2.ろばの子に乗って入城された主
・今日の招詞にゼカリヤ書9:9-10を選びました。次のような言葉です。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。私はエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」。
・イエスは歩いて旅をされました。しかし、このたびのエルサレム入城においては、あえてろばを調達され、ろばに乗って、エルサレムに入られました。それは、イエスが、ゼカリヤ書に象徴されるような平和のメシアである事を人々に示されるためでした。「私はメシアであり、あなたがたを救う為に、都に来た。しかし、あなたがたが期待するように軍馬に乗ってではなく、ろばの子に乗って、あなたがたのところに来た」という、イエスのお気持ちが、ろばに乗るという行為に示されています。イエスはこの行為を通して人々に語られます「馬は人を支配し、従わせるための乗り物だ。しかし、私は支配するためではなく、仕えるために来た。あなたがたに本当に必要なものは戦いで勝利を勝ち取ることではなく、和解だ。人間同士、国同士の和解に先立って、まず神との和解が必要だ。あなたがたの罪がその和解を妨げている。だから私はあなた方の罪を背負うために来た」と。
・ろばは風采の上がらない動物で、戦いの役に立ちません。しかし、ろばは柔和で忍耐強く、人間の荷を黙って、負います。イエスも重荷を負うために来たと言われます。しかし、人々が求めていたのは、栄光に輝くメシア、軍馬に乗り、大勢の軍勢を従え、自分たちを敵から解放し、幸いをもたらしてくれる強いメシアです。重荷を代わりに負ってくれるろばに乗るメシアではありません。人々は、イエスが自分たちの求めていたメシアではないことがわかると、一転して「イエスを十字架につけろ」と叫びはじめます。それが金曜日の受難へと導きます。
3.この方に従っていく
・私たちもイエスに様々な期待を寄せます。「神の子であれば私の病を治して欲しい、神の子であれば私を幸せにして欲しい」と。しかし、イエスは言われます「私が約束するのはそのようなことではない。私が何故ろばに乗って入城したかをまだ理解しないのか」。イエスの気持ちを知り、自分も子ろばのようになりたいと思った人に、榎本保郎と言う人がいます。ちいろば牧師として有名な人です。ちいろば=小さなろばの略称です。彼はその著書『ちいろば』のあとがきで次のように述べています「ろばの子が、向こうの村につながれていたように、私もまたキリスト教とは無縁の環境に生まれ育った。知性の点でも人柄の点でもキリストに相応しいものではなかった。・・・ろばは同じ馬科の動物でも、サラブレッドなどとは桁外れに、愚鈍で見栄えがしない。しかし、その名もないろばの子も、一度主の御用に召されれば、その背にイエスをお乗せする光栄に浴し、おまけに群集の歓呼に迎えられて、エルサレムに入城することが出来た。私のような者も、キリストの僕とされた日から、身に余る光栄にひたされ、不思議に導かれて、現在に至った。あのちいろばが味わったであろう喜びと感動が私にもひしひしと伝わってくる。その喜びを何とかして、お伝えしたい」。
・聖書は徹底的に、軍馬に頼る生き方を拒否します。「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える。彼らは力を失って倒れるが、我らは力に満ちて立ち上がる」(詩篇20:8‐9)。「助けを得るためにエジプトに下り、馬にたよる者はわざわいだ。彼らは戦車が多いので、これに信頼し、騎兵がはなはだ強いので、これに信頼する。しかしイスラエルの聖者を仰がず、また主にはかることをしない」(イザヤ31:1)。
馬は力の象徴です。馬に頼るとは、自分の力に頼り、他人を支配して生きていく人生です。しかし、馬は肉に過ぎず、倒れる、倒れるものに望みを託すなと聖書は言います。エジプトの軍馬に頼って国の安全を守るとは、現代の私たちがアメリカの核の傘に頼って日本の防衛を考えることと同じです。聖書は日米安保条約や米軍基地のプレゼンスに明確に否を言う事を私たちは覚えたい。「私はエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ」、沖縄や横須賀の米軍基地の問題、自衛隊のイラク派遣問題、それらの問題を私たちは自分の信仰の課題として、祈ることが求められています。
・それに対して、ろばに乗る人生とはただ主にのみ依り頼んで歩いていく人生です。ろばは柔和で忍耐強く、人間の荷を黙って、負います。イエスも私たちの重荷を、何も言わずに負ってくれました。その感謝が信仰です。ペテロは言います「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(〓ペテロ2:21-24)。「キリストのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」、今度は私たちが行動する番です。
・イエスがろばを調達されたベタニアとは、「悩む者の家」あるいは「貧しい者の家」と言う意味です。この村でラザロは死からよみがえり(ヨハネ11:44)、マリアがイエスにナルドの香油を奉げ(マタイ25:12)、イエスはこの村から昇天されました(ルカ24:50)。私たちはこの教会をベタニア村のような共同体にしたいと願います。ろばのように、忍耐強く、愚痴を言わずに、もくもくと他者の荷を負っていく。そのような共同体をここに創りたいと願います。