江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年3月19日説教(マルコ8:27-33、十字架を負って従う)

投稿日:2006年3月19日 更新日:

1.イエスの道とペテロの道

・受難節第三主日を迎えています。今日、私たちは、マルコ8章から御言葉をいただきますが、この箇所は弟子たちのメシア=救い主の理解とイエスの理解が食い違っている事を示す場面です。弟子たちは栄光のメシアを求めました。自分たちを助け、自分たちの夢を実現してくれるメシアです。それに対してイエスの示されたメシアは苦難のメシア、他者の為に自分を捨てるメシアです。弟子たちはこれを受け入れることが出来ず、イエスから「サタンよ、引き下がれ」と大声で叱られます。神への信仰がいつの間にか、自分の利益を求めるサタンの信仰になってしまうことが生じるのです。私たちがキリスト(ヘブル語メシアのギリシャ語訳)に従うとはどういうことであるのかを、今日はご一緒に学びます。
・イエスはガリラヤでの伝道の働きを終えられ、エルサレムに向かう決意をされました。ガリラヤでは人々はイエスを温かく迎え入れてくれましたが、これから向かうエルサレムはイエスに反対する宗教指導者たちのいる場所です。すでにパリサイ派の人々はイエスを殺す相談を始めています(マルコ3:6)し、イエスの師であるバプテスマのヨハネは既にヘロデ王に殺されています(6:27)。エルサレムに行けば、自分は殺されるかもしれないとイエスは感じておられました。それが父なる神の御心であれば従おうと思っておられます。しかし弟子たちはその事を知りません。イエスは弟子たちにその覚悟をさせるために、ガリラヤを離れて北のピリポ・カイザリアに行かれました。その地でイエスは弟子たちに聞かれます「人々は私のことを何者だと言っているのか」(8:27)。
・弟子たちは答えます「『バプテスマのヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。バプテスマのヨハネは領主ヘロデを批判したために捕らえられ、殺されました。人々はイエスの業を見て、「バプテスマのヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」(6:14)とうわさしました。エリヤは世の終わりの時に再び来ると言われていた、預言者です。人々はイエスの業の中に神の力を見ました。しかし、イエスが救い主だとの認識はまだ持っていません。
・弟子たちの答えを聞いて、イエスは再度訊ねられます「では、あなた方は私を何者だと言うのか」。他の人はいざ知らず、あなたがたは私を誰だと思っているのかと聞かれたわけです。イエスの問いかけに、ペテロが答えました「あなたはメシアです」。メシア=救い主です。イエスの時代、イスラエルはローマの植民地として、苦しめられていました。人々は、神がメシアを遣わされ、イスラエルから外敵を追い出し、理想の王国を作って下さると待望していました。彼らの望んだメシアはダビデのような、力ある王です。ですから、ダビデの子孫からメシアが生まれると信じていました。弟子たちはイエスの中に、そのメシアを見ていました。
・イエスはペテロの言葉を喜ばれましたが、自分がメシアである事を誰にも言わないようにと命じられました。メシアだとのうわさが立てば、イエスを王と担ぐ政治運動が起こる、それはイエスの望まれることではないからです。その後で、イエスは弟子たちに言われました「私はこれからエルサレムに行く。エルサレムで、人々は私を捕らえ、鞭打ち、十字架にかけるだろう。しかし、私は三日後に復活する」。ペテロは自分の耳を疑いました。神から遣わされたメシア=救い主が十字架で死ぬ、そんなことがありえようか。彼は反論します「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。ペテロの考えたメシアは地上の王です。メシアが来れば、イスラエルにダビデ王国の繁栄が回復されると期待していました。その王が十字架で殺される、そんなことがあるはずがない。弟子たちは家や職を捨ててイエスに従って来ました。この人に従っていけば、自分たちもひとかどの人間になれる、なりたいという願望がありました。その願望をイエスは否定しようとされている、ペテロは必死になってイエスを諌めました「主よ、とんでもないことです」。
・ここでペテロが先にした信仰告白の意味が明らかになりました。ペテロはイエスに対して「あなたこそメシアです」と告白しましたが、それはペテロの考えるメシアでした。ペテロが求めているのは、栄光のメシア、自分たちを苦しみから救って下さるメシアなのです。だからイエスから異なるメシア、苦難のメシアが示されると受入れることが出来ません。そのペテロに、イエスは激しい言葉を与えられました「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。「あなたは自分たちの事ばかり考え、神のことを思っていない。今、あなたの中にサタンがいる」とイエスは言われました。

2.十字架を負って従う

・今日、私たちは招詞にマルコ8:34を選びました。次のような言葉です「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい』」。ここには三つのことが言われています。最初は自分を捨てることです。私たちは自分の思い、自分の願いを信仰の中にも持ち込みます。神とは私たちを守り、繁栄をもたらしてくれる存在だと信じています。健康を望んだのに病気を与えられた時、平安になることを望んだのに災いを与えられた時、私たちは、約束が違うと抗議します。ペテロの抗議と同じです。イエスは言われます「もし、神があなたの望む通りをなさる方であれば、それは神ではなく、あなたの操り人形、単なる偶像ではないのか」。自分を捨てるとは、自分の思惑、自分の利益を捨てて、神の思いに従うことです。
・次の言葉は「十字架を負って」です。イエスは十字架を負われました。イエスが負われた以上、弟子である私たちも、十字架を負うことになります。その十字架とは何か、人によって違うでしょう。最後の言葉は「従う」ことです。イエスは言われます「私が十字架で死ぬということは、弟子であるあなたがたにも死の危険が迫ることだ。それでも従うか」。それでも従うか、弟子になることは決断が求められる出来事です。
・2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルが破壊され、3000人が死にました。米国のブッシュ大統領は被災現場に立ち、民衆に演説しました「アメリカはこの死を無駄にしない。テロリストを赦さない。彼らにアメリカの力を見せよう」。群集は熱狂し、ブッシュはテロリストたちの本拠地と目されたアフガニスタンを空爆し、更にはテロリストを支援する国家としてイラクに攻め込みました。もし、イエスがこの現場に立たれたらどう言われるでしょうか。ブッシュと声を合わせて「テロリストをやっつけろ」と叫ばれるでしょうか。そうではないでしょう。おそらく、イエスはこう言われます「敵を愛しなさい。何故テロリストがこのような事をしたのか、その原因を考えなさい。報復してはいけない。剣を取る者は剣で滅びる」。もし、イエスが世界貿易センタービルの廃墟に立ってこのように言われたら、同胞を殺されたアメリカの民衆は檄こうし、イエスに石を投げ、十字架につけろと叫ぶでしょう。2000年前にイエスを十字架につけた民衆と、今またイエスを十字架につけようとする現代の民衆は同じなのです。人が求めるのは栄光のキリストなのです。
・イエスに従うとは、この栄光のキリストを捨て、十字架のキリストに従うことです。それはイエスと共に石を投げられる立場に立つことです。イラク戦争から三年が経ちました。十字架なしに栄光のキリストを目指したブッシュの行動が、その後のアフガニスタンやイラクにどのような被害を及ぼしたかを私たちは知っています。アメリカ人死者は二千人を超え、イランやアフガニスタンの犠牲は五万人以上になったと推測されています。三千人の仇を討つために、数万人を殺し、自分たちの犠牲者も数千人になったわけです。報復がいかに愚かで実りがないか、怒りの感情がどのような悲劇を生むのかを、この事例は教えます。十字架以外に救いはないのです。それは「自分の怒りに耐え、悲しみを担いながら、キリストの言葉に聞いていく」ことです。キリスト教国アメリカでさえ、それが出来なかった。それは神に依り頼まず、自分の力に依り頼んだからです。
・信仰とは、人に依り頼むことではなく、神に依り頼むことです。マルコ8:31「人の子は必ず苦しみを受け・・・三日後に復活する」、「必ず」と言う言葉はギリシャ語の「デイ」です。「必ずそうなる=神の必然」と呼ばれる言葉です。宇宙は偶然に発生し、地球は偶然に発生し、私は偶然に発生したのではなく、神により創造され、神により生かされている。その神の必然の中で、十字架の出来事があった。十字架は偶然や運命ではなく、神の必然であった。だから、私たちも与えられる悲しみを受け入れていく、そして神がその悲しみをいやしてくださるのを待つ。それが十字架を負って従う生き方です。それは、毎日の生活の中で、イエスに問いかけて行く生き方になります「あなたは私がしようとする事を喜んで下さいますか。喜んで下されば、私はします。あなたを悲しませる行為であれば、やめます」。難しい生き方です。出来ないかも知れない。しかし、それがクリスチャンの生き方である事を、今日は覚えたいと思います。

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