江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年11月5日説教(創世記9:8-17、天地を保持される神)

投稿日:2006年11月5日 更新日:

1.教会創立記念日を迎えて

・今日、私たちは、教会創立記念礼拝を持ちます。私たちは第一回目の礼拝を、1969年11月6日に、篠崎文化館で持ちました。その後米国から土地・建物の購入資金が献金され、現在の地に教会堂を建設し、1973年11月3日に教会組織をしました。従って今年は、教会の伝道開始37年、教会組織33年の時になります。37年間の歩みは決して順調な歩みではありませんでした。教会の記録を見ますと、牧師交代の度に教会員が散らされていった歴史を読み取ることが出来ます。二代目坪井先生が辞任された1989年には礼拝参加者が40名台から20名台に減らされています。三代目岡田先生の時に礼拝参加は50名台に回復しますが、先生辞任後の2000年には10名台まで減らされ、2年間の無牧時代に教会はさらに試練を受けます。私が就任しました2002年には10名弱の方が礼拝に集まるだけでした。この最後の試練は破局というべき厳しいものであり、教会はこれからも存続できるのかという危惧を抱くほどのものでした。それから4年の時が流れ、礼拝に集まる方の数も次第に増やされていきました。牧師辞任のたびに民が散らされたということは、教会の中に争いがあった、兄弟姉妹の関係が破れたことを意味します。私たちは罪を犯し、裁かれたのです。しかし今、私たちが思いますのは、私たちは砕かれましたが、主は私たちが存続することを許され、さらに新しい創造の希望を持つことも許されたということです。今日、私たちは教会の歴史の意味を、創世記から学んでいきます。何故ならば、創世記は罪を犯して砕かれ、涙を流して悔い改めた、イスラエルの民の苦闘の中から生まれた書だからです。
・歴史上、いろいろな民族が興り、滅んでいきました。その中で、生存を許され続けた民族がイスラエルです。イスラエルはダビデ・ソロモンの時代に繁栄し、その後王国は南北に分裂しますが、独立を保ちます。しかし、紀元前722年に北王国はアッシリアに滅ぼされ、南王国も前587年にバビロニヤに占領され、住民はバビロンの地に捕囚となります。人々は思いました「主は私たちイスラエルをご自分の民として選び、先祖ダビデに“あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続く”と約束された。それなのに国は滅び、私たちは異国の地に捕えられている。主は私たちを捨てられたのか」。主は何故私たちの国を滅ぼされたのか、私たちはこの異邦の地で死に絶えるのだろうか、彼らは必死に祈りました。そして、自分たちが主にそむいた故に、砕かれたことを知ります。今、民の最大関心事は、主は自分たちの生存をこれから許して下さるだろうかということです。その苦闘の中で、祖先から伝承した物語が読み直され、編集され、今日の創世記となって行きました。
・創世記は1章から10章までが原初史で、6章からが洪水物語です。洪水物語は世界各地にあります。おそらくは氷河期が終わって温暖期に入った時に、氷河が溶けて世界を覆う大洪水が発生し、その太古の記憶が洪水伝説として残されたものでしょう。イスラエルが幽閉されたバビロンの地には、有名なギルガメシュ叙事詩が残されており、捕囚の民はその叙事詩に題材を得て、創世記の洪水物語を編集していったと言われています。従って、この物語は、自然科学や考古学と関係のある気象上の事件や、あるいは歴史上の出来事の報告ではありません。国を滅ぼされ、破局を経験した民族が、どのようにして、救いを見出していったかの信仰告白の文書なのです。

2.裁きとしての洪水

・神が天地を創られた時、創られたものを見て「はなはだ良かった」と言われました(1:31)。その創造世界に人間の罪が入っていく様を創世記1~5章は記述します。最初の人アダムは神のようになろうとして楽園を追われ、その子カインは弟をねたんで殺し、レメクは敵を威嚇することによって自己の生存を図ります。レメクは言います「私を傷つけた者を私は殺す。カインのための復讐が7倍ならば、レメクのためには77倍」(4:23-24)。レメクの時代、人間は既に武器を手にし、その武器でお互いを殺しあうようになっていました。創世記6章は書きます「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた『私は人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。・・・私はこれらを造ったことを後悔する』」(6:5-7)。神は世界がご自身の意図に反したものになったことを悲しまれ、これを滅ぼそうとされます。しかし、その中でノアと家族だけは生き残ることを許されます。主は言われました「私はあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい」(6:18)。
・裁きが始まりました。創世記は記します「この日、大いなる深遠の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。雨が四十日四十夜地上に降り続いた。・・・水は勢力を増し、地の上に大いにみなぎり、箱舟は水の面を漂った。水はますます勢いを加えて地上にみなぎり・・・地上で動いていた肉なるものはすべて、鳥も家畜も獣も地に群がり這うものも人も、ことごとく息絶えた」(7:11-21)。洪水によって、地の上にいた生き物はすべて大地から拭い去られました。神は溺れ死ぬ人々を見て、心を痛められ、怒りを収めることを決意されます。創世記は書きます「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた」(8:1)。少しずつ水が引いていき、やがて地が再び現れます。主はノアに箱舟を出るように命じられます。外に出たノアが最初に行ったのは、主のために祭壇を築くことでした。洪水の中で守っていただいたことを感謝するためです。主はノアの捧げる献げ物の香りをかいで言われます「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。・・・生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も昼も夜も、やむことはない」(8:21-22)。
・神はノアに言われました「あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけは私に従う人だと、私は認めている」(7:1)。「肉なるものを終わらせる」と言われながら、その中に一人でも正しい者がいれば、彼を通じて民を再び起こして下さる神がここにおられます。人間の苦しみを見て、例え彼らが罪を犯し続けてももう滅ぼすことをしないと宣言される神がおられます。この神が私たちの神です。

3.赦しとしての契約

・神は「もう人を滅ぼすことはしない」と誓われました。神は人が罪を犯し続けることを承知の上で、滅ぼさないと言う和解の契約を立てられ、しるしとして虹を立てられました。ヘブル語の“虹”は弓を意味します。人を滅ぼす弓はもう引かない、神はその武器を雲の中に置かれました。それは人が洪水に洗われて清くなったためではなく、人が滅びるのを見ることは悲しいからだと神は言われています。神が自己の正しさを放棄され、被造物がどのように罪を犯し続けても、これを受け入れると約束されたのです。親は子がどのようにそむき続けても子を受け入れます。子が罪を犯して死刑の判決を受けた時も、親はその罰をやむをえないと認めても、子の救いを求めます。神も創造者ゆえに、被造物を愛され、被造物の罪を赦されます。神は捕囚の民に言われます「私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。私はあなたたちを造った。私が担い、背負い、救い出す」(イザヤ46:4)。終末の日まで二度と滅ぼすことはしない、天地は神の憐れみと忍耐で保持されているのです。洪水物語の焦点は洪水にあるのではありません。洪水の結果、神ご自身の中にもたらされた変化の中にあるのであり、その変化こそが被造物にとって新しい生存を可能にするのです。
・今日の招詞として〓ペテロ3:20-21を選びました。次のような言葉です「この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです」。洪水の後、神は人を再び滅ぼすことはしないと約束されました。どのような苦難も有限なものになりました。バビロンの地で絶望の中に沈む民は、ノアに語られた神の言葉に、自分たちの生存の希望を見出していきました。捕囚の地の預言者イザヤは神の言葉を取り次ぎます。「これは、私にとってノアの洪水に等しい。再び地上にノアの洪水を起こすことはないとあの時誓い今また私は誓う。再びあなたを怒り、責めることはない、と」(イザヤ54:9)。「あなた方を見捨てることはない」、捕囚の民は洪水物語を通して神の赦しを聞いたのです。洪水物語は新約聖書記者にも大きな影響を与えました。ペテロは洪水の意味をバプテスマの中に見ています。私たちはバプテスマによって葬られ、水から上がって復活の命に生きます。人は救われるために一度死なねばならない。洪水を通してこそ救いがあるとペテロは言っています。
・私たちの罪にかかわらず、神は再び私たちを滅ぼすことはないと宣言されました。私たちの教会もこの宣言を聴きます。もう神は篠崎キリスト教会を滅ぼされない、私たちが再び罪を犯して裁きを与えられる時はあるかもしれないが、滅ぼされることはない。だから私たちは教会という箱舟を出て、地域という地上に降り、そこで礼拝を捧げるのです。地域で礼拝を捧げる、地域に福音を伝える、洪水を経て与えられた新しい地に仕えていく、それがこれからの私たちの教会の歩みです。バビロン捕囚という裁きがあって、創世記という信仰の書が与えられました。教会の砕きという悲しみがあって、私たちも創世記の言葉を「アーメン」として聞くことが出来る存在に変えられたのです。この赦しの宣言の中に、私たちは生きていくのです。

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