江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年10月29日説教(ヨブ記38:1-18、創られた方を覚える)

投稿日:2006年10月29日 更新日:

1.この世に何故悪があるのか

・今日から私たちは降誕前節に入ります。クリスマスを前に、キリストが何故来られたのか、私たちの救いとは何かを考える時です。それは、私たちは何者か、何故ここに生きているのかを問いかける時でもあります。最初の課題は、何故悪が、あるいは苦しみがこの世にあるのか、です。「何故、この世に悪があるのだろうか」。人間は昔からこの問いをして来ました。「全能の神がおられるのに何故悪があるのか。神は本当におられるのか」という問いです。この世には多くの不幸や悲しみがあります。何故そのような不幸や悲しみが自分に起こるのか、理解できない時もあります。ある人は突然の難病に苦しめられます。ある人は家族を交通事故で亡くします。一生懸命働いてきたのに事業が行き詰まって破産に追い込まれる人もいます。神様がこの世を支配し、かつ私たちを愛しておられるとすれば、何故このようなことが起こるのでしょうか。
・聖書の中で、この意味のわからない、不条理な苦しみが、何故あるのかを追求した書がヨブ記です。主人公ヨブは「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、・・・多くの財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった」(1:1-3)とあります。彼は家族と財産に恵まれ、周りの人からも尊敬されていました。そのヨブに理由のわからない苦難が次々に与えられます。最初の災いは家族が集まっていた時、家が倒壊し、家族全員が死ぬという災害でした。10人の子どもたちが一瞬のうちに取り去られました。次に何千頭もの家畜が強盗に奪われるという出来事が起こりました。裕福だったヨブが、一夜にして財産を失います。更に、彼自身に重い病気が与えられます。周りの人たちは相次ぐ災いを見て、ヨブは神に呪われていると考え、近づかなくなりました。当初、ヨブはこれらの災いを宿命として受け容れます。「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(1:21)。しかし、苦難は去らないばかりか、ひどくなるばかりです。終に彼は運命を呪い始めます「私の生まれた日は消えうせよ。」と(3:3)。
・ヨブは正しい人だっただけに、彼自身がこんなに罰せられるほどの罪を犯したと思えません。また、自分が苦しんでみて、世の中には正しい人が苦しみ、悪人が栄えるという現実があることも見えてきます。ヨブは神に対して異議申し立てを行います。「神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。」(9:22-24)。彼は神に問いかけます「何故あなたは私にこのような苦しみを与えられるのか。何故あなたは正しい者に悪人と同じような裁きをされるのか、あなたは本当にこの世界を支配しておられるのか」と。神は答えられません。ヨブは終には神を告発します「どうか、私の言うことを聞いてください。見よ、私はここに署名する。全能者よ、答えてください。私と争う者が書いた告訴状を」(31:35)。あなたを告発するとヨブは言います。

2.苦しみを通して自分の無知を知る

・求め続けるヨブに神が応答されます。それがヨブ記38章です。「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。私はお前に尋ねる、私に答えてみよ。私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」。(38:1-4)。何故私に苦しみが与えられるのかというヨブの問いに、神は何も答えられません。ただ言われます「私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか」。神が天地を創造された時、ヨブはどこにもいません。まだ生まれていなかったからです。神は問いを続けられます「お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるか」(38:12)。誰が夜を終わらせて朝をもたらすのか、お前なのかと神は問われます。ヨブは答えられません。天体を支配しているのはヨブではないからです。神は更に問われます「お前は海の湧き出るところまで行き着き、深淵の底を行き巡ったことがあるか」(38:16)。お前は海の果てまで、地の果てまで行ったことがあるかとの問いにも、ヨブは答えられません。ヨブの知っている世界はパレスチナとその周辺だけだからです。
・ヨブの苦難は、自己を中心にした時には大問題になります。しかし、神は言われます「神を中心にして世界を考えてみなさい。一体お前はどれだけのことを知り、どれだけのものについて責任が取れるというのか。何一つお前は知らず、何一つ責任を取ることができないではないか」。このような問いかけが38章から41章まで続きます。40章12-14節で神はこのように問われます「すべて驕り高ぶる者を見れば、これを挫き、神に逆らう者を打ち倒し、ひとり残らず塵に葬り去り、顔を包んで墓穴に置くがよい。そのとき初めて、私はお前をたたえよう。お前が自分の右の手で、勝利を得たことになるのだから」。お前が地上の悪人どもを滅ぼし尽くし、この地上に完全な正義を実現することが出来るなら、私はお前をほめよう。しかし、何故私が悪人どもを滅ぼし尽くさないのか、お前は知っているか。私は悪人さえ滅ぶのを喜ばず、彼らが悔改めて命に入る日が来ることを望んでいる。だから彼らを滅ぼし尽くさないのだ。そのことをお前は知っているのか。ここでヨブは知らされます。創造世界の中心にいるのはヨブではなく、ヨブはこの創造世界について何も知っていないことを。何も知らないのに、自分に起こった理不尽な苦しみだけを見て、神を問い詰め、神を告発していたのです。

3.創造者に出会う

・今日の招詞にヨブ記42:5−6を選びました。次のような言葉です「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔改めます」。
人は創造世界のことを何も知りません。この世界がどのようにして創造され、どのようにして運営されているかについて何も知りません。何も知らないことを知った時、人は「人は人であり、神ではない」ことを知ります。そして、ヨブは悔改めます。神がヨブの問いに答えず、逆にヨブに問うことにより、ヨブの悔改めが導き出されています。
・ヨブは自分の苦しみを通して、世の中を見ました。自分の苦しみにこだわり続ける時、苦しみはますます大きくなっていきました。しかし、神の言葉を契機に、ヨブは自分が世界の中心にいるのではないこと、自分が全てを知るわけではないことを知らされます。そして、そのような自分のことをも、神は心に留めておられることに気づかされた時、苦しみは苦しみでなくなりました。だからヨブは告白します「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。・・・私には理解できず、私の知識を超えた、驚くべき御業をあげつらっておりました」(42:2-3)。神はそれぞれの人に、異なった能力と境遇と人生を与えられます。ある人は健康に生まれ、別の人は病気や障害を持って生まれます。ある人は金持ちの家に生まれ、ある人は家が貧しくて学校に行くことも出来ません。私たちにはそれが何故か、理解できません。しかし、理解できなくとも、それはそれで良いのであって、私たちは自分に与えられた可能性の中で精一杯生きれば良いのです。それは諦めではなく、現実を見つめる「平静さ」という勇気です。ヨブはそれを知ったときに平安に満たされました。
・ヨブは言います「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔改めます」(42:5-6)。ヨブは今まで「神について」、いろいろ知っていました。しかし「神」を知りませんでした。苦難の中でのたうちながら神に問いかけ、神が応答された時、初めて神と出会いました。人は苦しみに遭って初めて、自分の無力さを知り、弱さを知ります。今まで自分一人の力で生きていると思っていたものが、実は自分を超えた大きなものに生かされている事を知ります。その時、苦しみが苦しみのままで喜びになって行きます。何故なら神がこの苦しみを知り、導いておられることを知ったからです。
・ヨブは自分の苦しみを友人に訴えました。少しでも慰めてもらおう、力になってもらおうと願いました。しかし、帰ってきた答えは「あなたが罪を犯したから災いを招いた。悔改めて、神に許しを請いなさい」という冷たいものでした。友人たちの答えは正しいかも知れません。しかし、正しさは人を救わないのです。人は誰も他者のために苦しみを分かち合うことは出来ません。ヨブは人間に絶望しました。その絶望の中で、この暗闇もまた神の支配下にあり、苦難が神と出会うために与えられたことに気がつきました。そのことに気づいた喜びが19章25節にあります告白です「私を購うものは生きておられる。後の日に彼は必ず地の上に立たれる」。私たちが「何故このような苦しみが与えられるのか」と聞くのを止めて、「あなたはこの苦しみを通して、私を何処へ導こうとされておられるのか」と聞き始めたとき、苦しみは恵みになります。
・ヨブは、苦しみを通して、自分が生きているのではなく、生かされていることを知ります。それを知った時、苦難という外部状況は何も変わらないのに、苦しみが苦しみでなくなりました。これが神を知った者の平安です。世の人々は苦しみや悲しみが来ませんようにと祈りますが、私たちはこの苦しみや悲しみを通じて、神に出会えますようにと祈ります。そして、出会いを通じて平安が与えられます。私たちを創造された方は、私たちのことを愛しておられるのです。愛しておられるゆえに私たちのことを気にかけておられます。私たちは一人ではないのです。神はイザヤを通じて言われました「私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。私はあなたたちを造った。(だから)私が担い、背負い、救い出す」(イザヤ46:4)。

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