江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年1月8日説教(マルコ1:9−11、神の子となる)

投稿日:2006年1月8日 更新日:

1.イエスのバプテスマ

・2006年1月8日、新しい年の始まりに、私たちはイエスのバプテスマの記事を読みます。バプテスマはキリスト者の出発点です。イエスもバプテスマを受けて、宣教活動を開始されました。年の始めに、私たちの出発点であるバプテスマの意味をもう一度振り返りたいと思います。まだ、バプテスマを受けていない方は、是非この機会にバプテスマを受けることの意味を考えて欲しいと思います。
・「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた」とマルコはイエスの宣教の始まりを伝えます。「そのころ」とは、バプテスマのヨハネがヨルダン川渓谷に現れ、「メシアが来られる。最後の審判の時が迫っている。罪を悔い改めよ」と説き、そのしるしとしてバプテスマを授け始めた時です。イエスはガリラヤでヨハネの宣教のうわさを聞かれ、内心の燃える思いに駆り立てられ、ガリラヤを出られました。その時、30歳であったとルカは伝えています。それまでイエスは故郷のナザレで、家業である大工をされていました。ヨハネを通して神から招きを受け、故郷を捨てて、ユダヤに向かわれたのです。
・イエスがヨハネのところに向かわれた時代は混乱の時代でした。当時のユダヤはローマの支配下にありましたが、ローマからの独立を求める反乱が各地に起こり、多くの血が流されていました。神を信じぬ異邦人に支配されることは、自らを選びの民と自負するユダヤ人には忍び難い屈辱であり、今こそ神は、彼らを救うためにメシアをお送り下さるに違いないという期待が広がっていました。だから、人々はヨハネの「メシアの来臨が近づいている」との宣教の声に応えて、「ユダヤの全地方からヨハネのもとに来て、ヨルダン川で彼からバプテスマを受け」ました。
・イエスもまたヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられました。マルコは伝えます。「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』という声が、天から聞こえた」。イエスが水から上がられると、天が裂けて、神の霊が鳩のように下って来て、天から声があったと。イエスの目にそれははっきり見えましたし、天からの声も聞こえたのでしょう。具体的に何が起こったのか、私たちにはわかりません。ただ、わかることが一つあります。それは、このバプテスマを通して、イエスが、ご自分が神から特別な使命を与えられて世に来られたことを知られたことです。「御自分が神の子である事を、この時、イエスは自覚された」、そのような出来事が起こったとマルコは記します。

2.私たちのバプテスマ

・イエスはバプテスマを受けて、その霊的生涯を始められました。だから、私たちもバプテスマを受けます。イエスがバプテスマを受けられた時は、天が裂け、聖霊がはとのようにくだり、天からの声がありました。しかし、私たちがバプテスマを受けても、天は裂けず、声もありません。イエスだから、このような特別のことが起きたのでしょうか。バプテスマを受けて私たちの人生は変わるのでしょうか。バプテスマを受けても、やがて信仰から離れていく人もありますし、信仰に留まった人でも「何も変わらなかった」という人が多くあります。では、バプテスマの意味は何なのでしょうか。
・ヨハネはバプテスマについて「私は水であなたたちにバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる」と言いました(1:8)。イエスは活動の初めに水によるバプテスマを受けられましたが、生涯の最後には十字架の死によるバプテスマを受けられました。聖書が示すことは、私たちも悔改めて水のバプテスマを受けることが救いの始まりであり、その後イエスが負われた十字架を負う事によって私たちも聖霊のバプテスマを受けるということです。私たちは自分たちの罪を認め、先ず水に入ります。信仰の歩みの中で、旧い自分が火によって焼き尽くされ、聖霊に満たされて新しくされる時を迎えます。これが聖霊によるバプテスマです。その時、私たちは生まれ変わり、もう以前のような人生は歩めなくなります。
・今日の招詞にローマ6:3-4を選びました。次のようなパウロの言葉です。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」。
・パウロはバプテスマを受けるとは、キリストの死に預かることだと言います。キリストの救いに預かることではなく、キリストの恵みに預かることでもなく、キリストの死に預かることです。そのキリストは十字架で処刑されました。キリストは何故処刑されたのでしょうか。それはキリストが、世の人々から罪人として排除された人たちの側に立ち、それを非難する人たちを逆に罪人とされたからです。イエスは言われました「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」(マタイ21:31-32)。
・徴税人とはローマのために税金を取り立てる人たちで、汚れた異邦人の手先として社会からはじき出されていました。娼婦は汚れた職業の女として、卑しめられていました。徴税人や娼婦は社会から受入れられなかったために、自分たちの罪を知りました。知らざるを得なかったのです。そのため、「罪を悔い改めよ」というヨハネの招きに応えて、悔い改めのバプテスマを受けました。当時の支配階級の祭司やパリサイ人たちは、自分たちは神の戒めを守っているから正しい、彼らとは違う、と思っていました。彼らに対して、イエスは「あなたがたが心の中で思っていることは他の人と同じではないか。心の中の思いこそ罪ではないか。それがわからないなら、あなたがたは目が見えないのだ」と批判されました。支配者たちは怒り、イエスを十字架につけました。
・私は、バプテスマを受けるとは、イエスの死に預かること、イエスの十字架に従うことだとは、長い間わかりませんでした。私は20歳の時にバプテスマを受けました。教会には行っていましたが、生活は何も変わりませんでした。週6日は会社員としてこの世の慣わしに従って行き、日曜日は教会に来て、それで十分正しい生き方をしていると思っていました。社会人として、夫として、父親として、責められるところは無いと思っていました。その自分が、どうしようも無い罪人であることを知らされたのはそれから25年後、45歳の時です。過ちを犯し、その過ちの報いが自分の生活を具体的に犯し始め、家族関係が苦しいものになって初めて、罪とは何かが始めてわかりました。自分の惨めさに涙を流した時、初めて、徴税人や娼婦のつらさを知りました。その時、二回目のバプテスマを受けたように思います。ヨハネのいう聖霊のバプテスマです。
・水のバプテスマは痛くありません。救われた喜びで満たされます。しかし、聖霊のバプテスマは長い苦しみの後に来ます。人は水のバプテスマでイエスとつながり、聖霊のバプテスマでイエスを着るのだと思います。ガラテヤ書3:26-27が言う通りです「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。
・もちろん、聖霊のバプテスマを受けても救いが完成するわけではありません。生きている限り、罪は残ります。しかし、聖霊のバプテスマを通して、人は決定的に変えられます。自分の救いよりも、神の恵みに応えたい、神の業に参加したいと願うようになります。自分が泣いて初めて、世には泣いている人がいかに多いかに気がつきます。自分の涙を神がぬぐって下さったから、苦しむ人の涙をぬぐいたいという願いが起こされます。その時、神の声が聞こえてきます「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのだ」(マタイ25:40)。その声に促されて、私たちも神の子としての新しい生活に入って行きます。神の子としての新しい生活の第一歩は水のバプテスマです。水のバプテスマを通じて、イエスを知り、神との接点がもてます。だからまだバプテスマを受けていない人は、是非、受けてください。水のバプテスマを受けた方は、次の段階として霊のバプテスマがある事を覚え、祈って下さい。その祈りがこの教会を神の国の出先として、この教会を通じて神の救いの業がなされていきます。

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