江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年1月15日説教(マルコ1:16-20、弟子への招き)

投稿日:2006年1月15日 更新日:

1.弟子への招き

・私たちは、マルコ福音書を通じて、イエスの宣教の業を学んでいます。先週、私たちは、イエスがヨルダン川でバプテスマを受けて、公の生涯を始められた事を学びました。ヨハネ福音書によれば、イエスはバプテスマを受けられた後、しばらく、ヨハネのもとにおられたようです。ところが、ヨハネはユダヤ当局から危険人物として逮捕されます。イエスはこの事件を契機に、ご自分の活動する時が来たことを悟られ、故郷のガリラヤに戻って、宣教を始められました。そのイエスが言われた言葉がマルコ1:15にある言葉です「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。時は満ちた、神が行動を起こされた、だからあなた方も悔い改めて、神の恵みをいただきなさい、とイエスはその宣教を始められました。
・イエスが最初になされたことは、弟子の招きでした。「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは『私について来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた」(1:16-17)。「ガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時」、特に目的を持たずに歩いておられた時に、たまたまシモンとアンデレが漁をしているのをご覧になった。その出会いは突然であり、また偶然であったとマルコは強調しています。シモンは学問があるから、アンデレは有能そうだから、二人を招かれたのではなく、たまたま出会った、たまたま彼らと目を合わせられたから、招かれたのだとマルコは語っています。私たちの人との出会いも多くはそうです。ところが、その出会いが、私たちの人生を決定的に変えることがあります。シモンとアンデレは招きに応えて従いました。彼らは網を捨てて従いました。網を捨てる、職業を捨てたのです。何故、そこまでして従ったのか、マルコは何の説明もしません。
・ヨハネ福音書によれば、ペテロとアンデレは、バプテスマのヨハネの呼びかけに応えて、ヨルダン地方に行ってバプテスマを受けており、そこにおられたイエスの言葉も聞いています(ヨハネ1:40-42)。ガリラヤに戻ってからも、イエスの説教や行われた業を見たり、聞いたりしていたのでしょう。日頃から、この人こそは真の預言者かもしれないと思っていたから、「ついてきなさい」というイエスの言葉に、すぐに従うことが出来たのかもしれません。この後、イエスはヤコブとヨハネが舟の中で網の繕いをしているのをご覧になり、彼らも呼ばれました。二人も、舟と父親を残して、すぐに従いました。ここでマルコが語ることは、弟子とは「呼ばれて」、「従う」者だということです。彼らは、網を捨てて、舟を捨てて、あるいは父を捨てて、イエスに従いました。イエスの招きの言葉の中に、有無を言わせぬ権威があったのでしょう。
・イエスの言葉はいつも招きです。招きはそれを聞いた人々の中に、応答を引き起こします。ある人はそれを拒絶し、別な人はそれを受け入れます。拒絶した人の人生は変わりません。そのままです。受け入れた人の人生は大きく変わります。前に、ローマを訪問したことがあります。ローマの中心部にバチカンがあり、そこにサン・ピエトロ教会(聖ペテロ教会)があります。教会の入り口にペテロの銅像がありましたが、像の足の部分は磨り減り、指を判別できませんでした。人々が病気のいやしを求めてでしょうか、ペテロの足に触れ、そのために足の部分が磨り減ったのでしょう。何千、何万と言う人が、救いを求めて、ペテロの銅像の足に触れたのです。ペテロは人から請い求められる「人間をとる漁師」に変えられたのです。
・ペテロはガリラヤの漁師でした。イエスに出会わなければ、イエスの招きに従わなければ、ペテロはガリラヤの漁師として、その生涯を終えたことでしょう。彼はイエスの招きに従いました。その結果、イエスの福音を伝える者となり、最後にはローマで死にました。そのペテロが死んだとされる場所の上に、サン・ピエトロ教会が立てられ、多くの人がペテロの徳を慕って集まります。その生涯が人間的には幸せだったかどうかはわかりません。捕らえられ、鞭打たれ、最後には十字架で殺されました。しかし、ペテロは喜んで死んで行きました。このことが語りますことは、私たちは幸せな人生を送るためにクリスチャンとして招かれるのではなく、偉大な人生を送るために招かれているということです。神の救済の業に参加するよう、招かれているという事実です。

2.私たちの従い

・今日の招詞に、マルコ3:13−15を選びました。次のような言葉です。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」。
・この言葉は、イエスが12弟子たちをお選びになったときの記録です。イエスは「神が行動されたのだから、その恵みを受け入れなさい」という福音、良い知らせが、受け入れられ、継承されていくように、弟子を選ばれました。具体的には、「宣教し、悪霊を追い出す」働きを弟子たちに委託されました。ここに教会の働きが集約されています。言葉だけではなく、「言葉と行い」による宣教です。宣教する、あるいは教えることはどの教会でもなされています。多くの教会で不足しているのは、最後の部分、「悪霊を追い出す」という行為です。病気の人をいやし、悲しむ人を慰める、その働きです。言葉だけでは、福音は伝わりません。他者の苦しみを受け入れ、共に分かち合う行為、すなわちいやしが必要なのです。教会=エクレシアの語源は、呼ばれた=エカレオーです。私たちは、呼ばれて、教会に集められたのです。「人間をとる漁師になる」(1:17)ためです。自分の救いだけではなく、他者と痛みを共有し、それを自分の出来事とするいやしの業を行うように呼ばれています。それはちょうど、宮沢賢治が「雨にもまけず」で歌ったように、です「ヒガシニビョウキノコドモアレバ、イッテカンビョウシテヤリ、ニシニツカレタハハアレバ、イッテソノイネノタバヲオヒ、ミナミニシニソウナヒトアレバ、イッテコハガラナクテモイイトイヒ、キタニケンクワヤソショウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイウ」。宮沢賢治が熱心に聖書を読んでいたことは有名です。彼は洗礼を受けていませんが、立派なキリストの弟子です。
・最初に私たちは、福音を聞く者として招かれます。イエスは言われました「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)。私たちは自分の悩み、悲しみをイエスのもとに持ち込んで、慰めてもらいました。ここに留まったままではいけません。恵みを受けた者は、次に与えるものになることが期待されています。私たちは、次に、弟子として、招かれます。その招きがマルコ8:34にあります「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」。私たちはこの招きを聞き流すことも出来ます。しばらく待ってくださいと猶予を願うことも出来ます。私たちが招きに従わなかった時、私たちは呼び集められた者の群=教会から、また信仰から脱落していくでしょう。
・弟子になるとは、完全な者になることではありません。十二弟子たちさえ「誰が一番偉いのかで争った」(マルコ9:34)し、イエスが捕らえられた時は、皆逃げました。それでも彼らはイエスを離れませんでした。出会って、根本から変えられていたからです。弟子になっていたからです。「キリストはその生涯をキリストに従う者たちの生活の中で、更に生きたもう」。キリストは私たちを通して、その業をなされます。私たちは、キリストの業に参加するように招かれているのです。

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