1.サウルを殺さなかったダビデ
・イスラエル民族は紀元前13世紀ごろにカナンの地に入った。そこは「あなた方に与える」と主から約束された土地であったが、先住の民族が住んでおり、イスラエルは敵と戦いながらその地に入り、そこを占領して国を築いた。しかし、国を建てた後も他民族の侵入に悩まされ、対抗して国を守るために王を必要とした。その初代の王として立てられたのがサウルであった。サウルは「美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった」(サムエル記上9:2)とあるように、軍人としては優れていたが、王=統治者としての能力は低く、民の人望はなかった。
・そのサウルの下で頭角を現してきたのがダビデだった。ダビデは軍人として優れ、また人柄も良く民に愛された。ダビデが戦いから帰って来た時、民は迎えて歌った「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」(18:7)。これはサウルには聞くに堪えない言葉だった。サウルは王であり、ダビデはその家臣に過ぎないのに、人望はダビデにあった。サウルは言った「ダビデには万、私には千。あとは、王位を与えるだけか。」(18:8)。「この日以来、サウルはダビデを妬みの目で見るようになった」とサムエル記は記す(18:9)。
・ダビデを妬む心がやがて憎しみになり、憎しみが殺意に変わっていく。サウルはダビデの命を狙い始めた。ダビデは宮廷を出て荒野に逃れるが、サウルは執拗にタビデの後を追い、殺そうとする。ある時「ダビデはエン・ゲディの荒れ野にいる」と伝える者があり、サウルは3千の兵を率いてダビデ討伐に出る。その物語が今日学ぶサムエル記上24章である。
・ダビデを探す途中、サウルは用を足すために、洞窟に入った。ユダの荒野には多くの洞窟があり、あるものは数百人も入れる。サウルが入った洞窟にはダビデと部下たちが隠れていた。サウルが来た時、ダビデの部下たちは言った「「絶好の機会です。サウル自らあなたの手の下に来た。彼はあなたの命を狙っている敵です。彼を殺してあなたが王になりなさい」(24:5)。ダビデは武器を取って立ち上がり、サウルを殺そうとしたが、思い直して言った「 私の主君であり主が油を注がれた方に、私が手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ。」(24:6)。
・ダビデは何故サウルを殺さなかったのだろうか。サウルはダビデにあらぬ疑いをかけ、彼の命を付けねらった敵であり、殺せばダビデの命は安泰になり、王位も彼のものになる。しかし、ダビデはサウルを殺さなかった。それは彼の信仰から来る。ダビデは歴史を神が導かれていると信じた。だから「神が選ばれたものを私は殺さない。もし、サウルが王としてふさわしくなければ、神自らサウルを取り除かれるだろう」と信じた。私たちも歴史をどのように理解するかで、行動が変わってくる。歴史は神により導かれているのか、それとも偶然性の連続なのか。もし、歴史が偶然性の連続であれば、今ここでサウルを殺して彼が王になれば良い。それが人間の選んできた歴史だ。しかし、もし歴史が神に導かれているものであれば、神の許しなしに行う行為は罪となり、ダビデの生涯は呪われたものになる。これが摂理の信仰、歴史を導かれる神の御心に従うという信仰であり、ダビデはその信仰に立って、サウルを殺さず、部下にもサウルを襲うことを許さなかった。ダビデは自分を殺そうとするサウルを主の裁きに委ねた。主が裁いてくださるから、自らの手で敵を殺す必要がなかった。
2.御心を受け入れる
・今日の招詞として、哀歌3:28-33を選んだ。次のような言葉だ「軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」。
・イスラエルは神に背き、その結果、神から裁きを受ける。その裁きがバビロン軍の侵入、国の滅亡、民の離散として、目の前の現実となった。エルサレムは焼かれ、民は殺され、主だった人々は敵の都バビロンに捕虜として連れ行かれた。その絶望の只中で書かれた記事が哀歌だ。町は廃墟になり、人々は全てを失い、食べるものもなく、さまよっている。著者はエルサレム滅亡の目撃者だ。彼は絶望の中で神の名を呼び始める。「あなたは何故このような事をなさるのか」。祈り続ける中で、絶望が次第に希望に変わっていく。国の滅亡という裁きを受けたが、神は私たちを見捨てられない。あわてふためき騒ぎ立てることをせず、静かに神に信頼して与えられた軛を負っていこう。この困難もまた神のご計画の中にあるものなのだから。「塵に口をつけよ」、この困難を黙って受けよう。「打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ」、不正で残忍な取り扱いを受けても、忍ぼう。「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる」。現実がどのようであれ、御心ならそれを受け入れていこう、哀歌の著者はそう歌う。
・ダビデは「主が油を注がれた方に私が手をかけることを主はお許しにならない」(24:7)といって、敵であるサウルを殺さなかった。相手がどのように残酷で自分を苦しめようと、悪に悪を報いない。打たれても報復しない。出来事の最終的な支配者である神にお任せする。神が私を選ばれたのであれば自分は王に成るであろう。その方法は相手の命を奪うことではない。ダビデは自らの手でサウルを退けず、神の時を待った。ダビデがイスラエルの王になったのはサウルの戦死後だった。長きにわたる試練がダビデを謙虚にした。領土が広がり、名君と評判されてもダビデは傲慢にはならなかった。王位は神の委託の元にあり、彼自身のものではないことを知っていたからだ。彼は弱さからいろいろの罪を犯すが、罪を問われた時は灰をかぶって悔い改めた。神はダビデを愛し、彼の末から神の子イエスが生まれていく。
・私たちも信仰者として、このダビデに倣って行く。神が与えられたものは、例え苦しく、その意味がわからなくとも受け入れていく。何故なら、神は私たちを愛し、私たちに祝福を与えようとしておられる。その祝福のために現在の試練がある。今はわからなくとも、わかる日が来る。その時、私たちは今与えられている呪いを感謝するようになる。自分で選ばない、神に委ねていく。そのような生き方が信仰者の生き方だ。
・今日、私たちは応答讃美として讃美歌73番を共に歌う。デートリッヒ・ボンヘッファーが1944年のクリスマスに書いた歌だ。ボンヘッファーはナチス時代を生きたドイツの牧師だ。彼はヒットラー暗殺計画に加わり、捕らえられ、獄中にいる。その獄中から家族にあてたのがこの詩だ。1番は次のような詩だ。「善き力にわれ囲まれ、守り慰められて、世の悩み共に分かち、新しい日を望もう」。今自分は獄中で、処刑の日を待っている。それなのに心は平安だ。善き力に守られている、神が共にいますからだ。「過ぎた日々の悩み重く、なおのしかかる時も、さわぎ立つ心しずめ、御旨に従い行く」。神に信頼せず、自分の力で悪を取り除こうとした。その罪の報いを今自分は受けている。処刑の日は近いかも知れない。しかし、心は平安だ。罪を犯したにもかかわらず、神は赦し、受け入れてくださったからだ。
・2番が続く「たとい主から差し出される杯は苦くとも、恐れず感謝をこめて、愛する手から受けよう」。主から差し出される杯は「死」であろう。死ぬのは怖い。怖いがそれが神の御旨であるなら、差し出される杯をいただこう。「輝かせよ、主のともし火、われらの闇の中に。望みを主の手にゆだね、来るべき朝を待とう」。神共にいませば、それでいい。自分が死んだ後、祖国ドイツがどうなるかわからない。わからないが、神が全てを善しとして下さる、その事を信じて行こう。望みを主に委ねよう、自分の為すべき事は終わった。4ヵ月後に彼は処刑され、死ぬ。39歳であった。
・御心に従う事は、多くの場合苦痛だ。御心が私たちの願いと異なることが多いからだ。病のいやしを求めても与えられない時、その病を喜んでいく。希望した学校や企業への道が閉ざされた時、その意味を求めていく。教会の一致を求めても与えられない場合は、その不一致を喜んでいく。不一致を通して、神は私たちをどこに導こうとしておられるかを追い求めていく。新約聖書の1/2は使徒たちの教会への手紙だ。手紙は問題のある教会に向けて書かれた。初代教会がいろいろの問題を持った故に、後世の私たちは手紙と言う恵みを与えられた。神は全てを善しと変える力を持たれる。それを信じていく。信仰のある者と無い者の違いは、いざと言う時に絶望に押しひさがれるか、それとも神による救いを見出すかだ。私たちはクリスチャンだ。キリストに出会った。だから、御心に従っていくのだ。