1.三人の占星術師の来訪
・今日1月1日に、私たちはマタイ2:1-12を読む。東方から三人の占星術師たちがベツレヘムに来て、幼子を拝んだ。この事を通して、三人はこれまでの生き方を改め、新しい人生を始めた。新年にふさわしい聖書個所だと思う。私たちはこのマタイ福音書の記事に導かれて、新しい年の生活を始めよう。
・マタイは、イエスが生まれられた時、星に導かれて、東方から占星術の学者たちが礼拝するために来たと伝える。「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。私たちは東方でその星を見たので、拝みに来ました」と彼等は告げた(2:2)。東方からの占星術の学者=マゴスと呼ばれたバビロニアの星占い師だ。占星術はバビロニアで始まり、それがギリシャに伝えられ、今日の天文学の始まりとなった。バビロニアの祭司たちは天体の位置や運行を通して何が起こるかを知ろうとしていた。未来を知りたい、知って安心したいというのが、人間の本性だ。当時の占星術は天の中心にあって動かない北極星を中心に成り立っていた。ところが動かないはずの星が動いた。その時、彼らは気づいた「星が私たちの人生を決めるのではなく、星を動かしておられる方がおられる、その方はこの星を動かすことで、何かを伝えようとしておられる」。彼らは故郷を離れ、星を追って、旅に出た。彼らは星に導かれ、バビロニアから1000キロを旅してエルサレムにまで来た。しかし、エルサレムで星が見えなくなった。これからどこに行ったらよいのか、彼らはエルサレムの王宮を訪ねた。
・「ユダヤ人の王として生まれられた方は何処におられますか」、占星術師たちの言葉は、ヘロデ王を不安にした(2:3)。何故ならヘロデが現在のユダヤ王であり、新しい王が生まれたことは彼の地位を危うくするからだ。ヘロデはユダヤ人ではなく、異邦の出身であり、ローマの支援を受けて王になった。彼の権力は武力に支えられたものであり、いつ覆るかわからない。不安を覚えたヘロデは新しく生れた王の行方を探ろうとして、祭司長や律法学者を集めた。祭司長たちは旧約聖書ミカ書の預言から、「ユダヤの王はベツレヘムで生まれる」と答えた。預言書は伝えていた「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者となる」(2:6)。祭司長たちはどこで救い主が生れるかを知っており、しかも生れたとの知らせを聞いたが、喜ばず、当惑した。聖書を読んではいたが、それは頭だけの知識だった。私たちもそうかも知れない。私たちは「主よ、来たりませ=マラナタ」と祈っているが、再臨のイエスが来られて「私がそうだ」と言われても、おそらくは信じることが出来ないだろう。
・ベツレヘムはエルサレムの南10キロの所にあり、ダビデの町として知られていた。占星術師たちはベツレヘムを目指してエルサレムを出発した。その時、見失っていた星が再び現れ、その星が先立って進み、彼等はイエスと両親が住む家に導かれた。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(2:10)。「とうとう来た、とうとう救い主に会える」、彼らは喜びに満たされた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。学者たちは幼な子を拝し、黄金・乳香・没薬を献げた。伝承では、この学者たちの来訪はキリストの誕生後12日目であったとする。だから、私たちはクリスマスから12日目の1月6日を公現日、キリストがその存在を明らかにされた時とおぼえて礼拝を献げる。今日はその公現日礼拝でもある。
2.心からなる贈り物を捧げよう
・占星術師たちは幼子に、黄金・乳香・没薬を捧げた。黄金は砂金であり、占いに用いられた。乳香はアラビヤで取れる香木の樹液であり、神殿で献げる香りとして用いられた。没薬は腐敗防止に優れ、死者の葬りの時に用いられた。占星術師たちは異教の祭司であり、乳香を用いて神殿で香をたき、没薬を用いて死者を葬り、砂金を用いて占いを行った。この黄金・乳香・没薬が捧げられたということは、占星術を行うための不可欠のものが幼子に献げられたことを示す。占星術師たちは、星に導かれて、幼子に出会った。その事を通して、星が運命を決めるのではなく、星を動かす方こそ世界を支配されておられる事を知った。その方が自分たちの為に行為されたことも知った。もう彼らは占いを生活の手段とすることは出来ない。それが偽りである事を知ったからだ。彼らは、これまで生活を支えた占いのための道具を全て捧げた。彼らは回心したのだ。
・占星術に支配される人生とは、「運命に翻弄される人生」だ。何かは知らぬ運命が私たちを襲い、どこに行くのかわからない、そのような人生だ。占星術師たちは星の動きを見て、人々の運命を占っていた。しかし、根拠となった北極星さえ動いた。星を動かされる方がおられる、その方は人間のために歴史に介入された。それを知る時、彼らはもう未来の運命を知ろうとは思わなかった。神が共にいて下さるのだから、どのような未来も怖れる必要は無くなったからだ。詩篇が歌うように、「死の陰の谷を行く時も私は災いを恐れない。あなたが私と共にいて下さる」(詩篇23:4)と言う人生に変わった。
・今日は元旦だ、日本中で多くの人が初詣に行くだろう。人々は神社に行き、「どうか災いが来ませんように、幸いが来ますように」と祈るだろう。私たちは神社に行かない。例え、災いが来ても神が導いてくれるから、「災いが来ませんように」と祈る必要がない。神は最善のものを下さる事を知っているから、「幸いが来ますように」と祈る必要もない。人間の不安は先が見えないことだ。病気になったらどうしよう、地震が来たらどうしよう、働けなくなったらどうしよう、私たちはいつも先の事を思い悩む。しかし、生まれられた幼子はやがて成長して言われた「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:33-34)。神に出会うことによって、私たちは平安をいただくのだ。
3.私たち自身を捧げよう
・今日の招詞にローマ12:1を選んだ。次のような言葉だ「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。旧約の人々は羊をいけにえとして献げて、自分たちの罪の赦しを求めた。これは傍観者の信仰だ。自分の身は痛まない。クリスマスの出来事とは、神が私たちに御子をお与えになった、自らをいけにえとして献げて下さったということだ。その犠牲を通して、私たちに赦しが、平安が与えられた。だから、私たちも自分自身をいけにえとして献げる。そのいけにえは自分の身体だ。自分の体=生活を供え物として献げて礼拝する。礼拝とは主日に教会に集まって讃美するだけでなく、毎日の生活を神に献げることだ。星に導かれて幼子を拝んだ占星術師たちは、自分たちの生活手段を捧げた。
・私たちも神に出会った。だから、私たちも自分自身を捧げよう。献身しよう。献身とは与えられた場で神を証しすることだ。占星術師たちは「自分たちの国に帰って行った」(2:12)。私たちも教会に来て神に出合い、それぞれの場に帰っていく。宮廷の祭司長たちは救い主が来られた事を知っても行動しなかった。救い主が来られても信じて行動しない限り、何の意味も持たない。信仰の傍観者であることはやめよう。東方の学者たちのように、動き始めよう。メシアが来られた、神の国が始まった、私たちもそれを見たのだ。人は言うかも知れない「キリストが来られても何も変わらないではないか。相変わらず人は争い続け、相変わらず月や星を拝んでいるではないか」。私たちは答える「違う、私たちがいる。御国を来たらせたまえという祈りを私たちが献げる時、御国は来るのだ。私たちはこの教会を御国にするのだ」。
・三人の占星術師たちは星に招かれ、旅に出て、御子を見出した。見出した者は変えられ、それぞれの場所に派遣されていく。私たちも招かれ、見出したから、応答する。クリスマスの終わった今、神が行為された後を受けて、私たちの応答の生活が始まるのだ。