江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年9月17日説教(ガラテヤ1:1-10、生涯を捧げる)

投稿日:2006年9月17日 更新日:

1.福音を捨てて律法に戻ろうとする人々へ

・今日、私たちは幼児祝福式とバプテスマ式の二つの式を持ちます。幼児祝福式は、幼子が神さまの子どもとして健やかに育つことを祈る行事です。他方、バプテスマ式は大人になった方が、これからの生涯を神さまと共に歩むことを誓う儀式です。この二つの式に共通するものは、これからの人生の歩みが神さまと共にあるようにとの祝福です。しかし、あくまでも祝福であり、そのことによって人が救われるのではありません。救いはあくまでも神の恵みであり、人間の側にはありません。しかし、人間は儀式の中に救いの要素を見ます。バプテスマを受けたのだから私は天国に行ける、あの人はバプテスマを受けていないから救われないと言い始めます。バプテスマという喜びの行為がいつの間にか救いの条件になってしまい、受けない人を排除する行為になります。時には、それが教会を二分する争いになります。ガラテヤ教会における割礼の問題がそうでした。今日はガラテヤでなされた議論を参考にして、幼児祝福式とバプテスマ式の意味を考えてみたいと思います。
・ガラテヤとは今のトルコ、当時の小アジアをさす言葉です。パウロは小アジア地域のアンティオケやルステラ、イコニウム等の諸都市に伝道し、そこに教会を立てていきました。こうして、ガラテヤ地方にいくつかの教会が生まれました。パウロはその後エペソに行って新しい伝道を始めましたが、そのエペソで、ガラテヤの人々がパウロの伝えた福音から離れ、割礼を受けようとしているとの知らせが届きました。パウロの去った後に、エルサレム教会から派遣された、ユダヤ人伝道者たちがガラテヤ地方を訪れ、「信仰だけでは人は救われない。私たちユダヤ人のように、割礼を受けて、律法を守らなければ、本当の救いはない」と宣教し、人々がその教えに従おうとしたのです。パウロは、ガラテヤの人々がこんなにも簡単に教えから離れて行ったことに驚き、また失望して、手紙を書きました。パウロは書きます「自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。・・・もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」(ガラテヤ5:1-2)。
・キリストは何のために死なれたのか、あなたがたは律法によっては救われず、罪の中に閉じ込められていた。そのあなた方を自由にするためにキリストは死んで下さった。その死を無駄にするのかとパウロは述べています。ここで問題になっている律法とはそもそも何でしょうか。律法とは一言で言うならば神の戒め、このように生きなさいとの教えです。「殺してはいけない」、「姦淫してはいけない」、「むさぼってはいけない」、人間として生きるための教えです。この教えが何故、人を罪の地獄に追いやるのでしょうか。最初に律法が与えられたのはモーセの時代でした。人々はエジプトで奴隷として働かされ、休息の日はありませんでした。その人々がエジプトから救い出された時、人々に安息日規定が与えられました。出エジプト記は次のように言います「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」(23:12)。あなたはエジプトで奴隷として働かされ、休むことができなかった、今あなたは救われて自由になった、だから七日目には休みなさい、使用人たちも休ませなさい、休んで元気を回復しなさいと神は言って下さったのです。恵みとして安息日が与えられました。人々は安息日には会堂に行って神を讃美しました。しかし、その規定が少しづつ変わっていきます。時代が経るに従い、「安息日を守らない者は罰する」、最後には「安息日を守らない者は死刑にする」と言う規定に変わっていきます。安息日に礼拝に参加しない人が出始めたからです。そして、安息日の礼拝を大事に守る人は、守らない人を許せなくなるのです。そのため、祝福が呪いに変わっていきました。
・割礼もそうです。最初に割礼を受けるように求められたのはアブラハムでしたが、それはアブラハムが選ばれて神の祝福を受けたのだから、しるしとして割礼を受けなさいというものでした。祝福のしるしとしての割礼だったのです。ところがそのうちに、「割礼を受けない者は救われない」、「割礼を受けない者は呪われる」というように変わっていきます。エルサレム教会から派遣された伝道者たちも、ユダヤ人として割礼を受けていました。だから他者にも割礼を強要するようになるのです。そして、いつの間にか、割礼を受けることが救いの要件になっていくのです。恵みとしての律法が、人を縛り、不自由にさせるものに変化していきます。ここに人の罪があります。パウロが批判するのは、律法そのものではなく、人を奴隷化する律法主義なのです。
・神の子とされたしるしとして割礼を受けなさいという祝福が、「割礼を受けなければ救われない」という呪いに変えられていきます。今日一日休んで明日から一生懸命に働きなさいという祝福が、「安息日を守らないものは呪われる」という規定に変わって行きます。そこに人の罪があり、その罪の贖いのためにイエスが十字架につかれたのです。人が再び神の子としての自由をいただく道がキリストによって与えられた、それが福音だとパウロは言っているのです。それなのにあなたがたは、この自由を捨て、また奴隷の道である律法主義に戻ろうとしているのだとパウロは警告しています。

2.恵みを無駄にするな

・今日の招詞にガラテヤ5:13−14を選びました。次のような言葉です「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」。
・パウロは、律法とは「隣人を自分のように愛すことだ」と言います。人はキリストに出会い、自由にさせられることを通して、自分の中にある肉の欲が、霊の愛に変えられていきます。肉の欲とは相手を自分に仕えさせようとする欲です。先日、法事で帰省した折、おじと久しぶりに会いました。おじは私が牧師になったことを知って、次のような話をしてくれました。「自分も若いころ、熱心に教会に通い、バプテスマを受ける決心までした。しかし、姦淫の戒めを聞いて自分には守れないと思い、教会に行くのをやめた。それから50年間、教会に足を踏み入れていない」。おじが言った姦淫の規定とはマタイ5:27−28にある規定です。次のように書いてあります「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。自分は女性を見る時にみだらな思いなしで見ることはできない、自分は聖人君子にはなれない、自分はクリスチャンにはなれない、そこでバプテスマを断念したとおじは言うのです。もし、おじがガラテヤ書を読んでいれば、バプテスマを断念する必要はなかったのにとその時、思いました。
・パウロは言います「信仰が現れる前には、私たちは律法の下で監視され、信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、私たちはこのような養育係の下にはいません」(ガラテヤ3:23-25)。誰しも心の中に姦淫の思いを持っています。それが人間なのです。自分の中の肉欲を自分で制御できないからこそ、警察官が電車の中で痴漢行為をし、小学校の先生が少女をお金で買い、新宿や池袋の盛り場に何千という性を売る店があるのです。「みだらな思いで女性を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」、この意味で無罪になる男性はほとんどいないと思います。私たちは有罪です。そして私たちに有罪を宣告するものこそ、「姦淫するな」という戒めなのです。律法の役割は、私たちが有罪であり、罪人として裁かれる存在であることを知らしめるところにあるのです。
・クリスチャンも同じ肉の欲の中にあります。しかし、私たちはキリストの十字架を知って、欲望の空しさと相手に仕えることの喜びを知りました。欲望のままに行動しても、そこには本当の喜びがない。欲望のままに行為しても、その満足はすぐに終わり、新たな欲望が生じるだけだということを知らされたのです。姦淫あるいは不倫は双方の家族を苦しめ、関係を崩壊させます。相手と自分の家族が苦しむ時、その苦しみの上には、幸福は築きえないことを私たちは知ったのです。「全ては許されているが、全てのことが益になるわけではない」(1コリント10:23)。私たちは、「姦淫するな」という戒めがあるから姦淫しないのではなく、「姦淫をしない自由」を選び取ることが出来るように変えられたのです。相手を愛するゆえです。同じように、私たちは「殺さない自由」も、「むさぼらない自由」も与えられています。全ての人が隣人に、兄弟姉妹になっていったからです。これがキリスト者の自由です。律法が人を救うのではなく、救われたから律法が生きる基準になっていくのです。行かなければ行けないから日曜日に礼拝に出るのではなく、生きる力をいただくために礼拝に参加するのです。救われるためにバプテスマを受けるのではなく、救われた喜びとしてバプテスマを受けるのです。
・しかし、その福音、恵みもすぐに律法化する危険性を持ちます。毎日聖書を読む人は、読まない人を「不信仰」とそしるようになります。教会で熱心に奉仕する人はしない人を見て、「信仰が足りない」と批判し始めます。聖書を読む、教会で奉仕する、その恵みさえも、他者を批判する律法になりかねないのです。私たちには、祈りが必要です。祈りとは神様から力をいただく行為です。私たちが隣人のために祈り始めた時、その隣人を呪うような行為はできません。隣人の欠点を数えなくなります。私たちが隣人の欠点を数えなくなれば、教会が神の国になって行きます。パウロは言います「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(ガラテヤ6:14-15)。新しく創造される、一度死んで新しい命に生きる、その祝福として、私たちはバプテスマを受けるのです。そして自分の生涯を神への捧げものとして生きるように変えられていくのです。

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