江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年2月12日(マルコ4:1-12、御言葉を聞いて、受け入れる)

投稿日:2006年2月12日 更新日:

1.種蒔きのたとえ

・先週、私たちは、マルコ4章から「種蒔きのたとえ」を学んだ。たとえそのものは簡単だ「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。
・このたとえはどこに重点を置くかで、たとえの意味が異なってくる。種とは福音の種=神の言葉だ。この種そのものに力点を置くと、次のような解釈になる「ある種は道端に落ちて、鳥に食べられてしまった。別のものは石地に落ち、芽を出したがすぐに枯れた。茨の中に落ちた種は芽を出したが、実を結ぶに至らなかった。しかし、必ず良い地に落ちる種はあり、それは豊かな実をつけるから、種を蒔き続けよう。種そのものに命があるのだから、信じて蒔き続けよう」。これが先週の学びだった。
・それとは別に、種がどこに落ちたかを重視する時、別の解釈が出てくる。ギデオン協会という団体は、学校や病院に聖書配布を行っている。ギデオンの方々にお話をお聞きすると、大変なご苦労をされながら、聖書配布をされておられる。放課後に高校や専門学校の校門で、学生に聖書を配布されるが、受取らない学生も多く、受取っても道端に捨てていく学生もいる。聖書が捨てられるのを見るのはつらいと話されていた。しかし、受取って、聖書を開き、教会に導かれる学生も出てくるから、それを楽しみに聖書を蒔くのだと言われていた。先週、そのギデオン協会の機関紙「ギデオン」を読んだ。その中で、一人の方が次のように証をされていた「大学3年生の時に、悩みがあり、たまたまもらったギデオンの聖書を読み始めた。聖書を読み始めているうちに、人生観が変わり始め、教会に導かれた。・・・バプテスマを受けた後、自分のように聖書を必要とする人がいるに違いないと思い、ギデオンに加入して、聖書頒布のお手伝いをするようになった。・・・聖書をプレゼントした時、心の中に楽しみが生れる。それはこの中から必ず救われる人が起こされるという期待感だ。あるものは道端に捨てられるかもしれない、岩地に落ちることもあれば、茨の中に落ちるものもある。しかし、必ず良い地に落ちるものがあって、それは芽生え、育って、30倍、60倍の実をつける。ギデオンの奉仕が与えられた事を心から感謝する」。
・ここでは、種がどこに落ちたのかが重視されている。道端に落ちた種や、石地に落ちた種は実を結ばない。しかし、神は必ず良い地を用意されているから、聖書を蒔き続けよう。この解釈は、最初の種の力に信頼する解釈と似ているようであるが、実は大きな違いがある。それは聖書を受取らず、あるいは受取った聖書を捨てるような人は、道端であり、石地なのだ。その人たちは、神様の救いから漏れているのだという気持ちがどこかにあるように思える。伝道の実態としては、ギデオンの人たちの言う通りだ。聞く心を持たない人に、いくら話しても、種は実を結ばない。実を結ぶ人だけに伝えていこうという気持ちになる。でも、人には4種類の人があるのだろうか。救いに預かる人と、そうでない人がいるのだろうか。種がどこに落ちたかを重視する解釈は、人を切捨てする危険性を持っている。もう一度、この問題を考えたい。それが同じ箇所をあえて説教する理由だ。

2.十字架を通してしか伝えられない言葉を聞いていく

・今日の招詞に〓コリント1:22-24を選んだ。次のような言葉だ「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」。
・イエスは多くの説教をされた。多くの人々がその言葉を聞いた。多くの種が蒔かれた。それにもかかわらず、イエスは十字架で死なれた。種は実を結ばなかったのだ。福音の種は、道端に落ち、岩地に落ち、茨の中に落ちて、芽を出さないか、出してもすぐに枯れてしまった。イエスの伝道は失敗し、人々の心に福音を伝えることは出来なかった。だから、十字架に死なれたのだ。十字架の時、弟子たちはイエスを見捨てて逃げ出した。私たちも逃げ出すだろう。私たちは良い地どころではなく、岩地や茨の地なのだ。どこにも良い地はなかったのだ。
・しかし、イエスは言われる「救いはそこから始まる。自分が見ても認めず、聞いても悟らない存在であることを知り、自分には救われる価値はないことを知る。それを知る時、人は自己に死に、神を求める」。自分が石地や茨の地であることを知る。バプテスマを受けても、罪を犯し続ける存在であることを知る。そのような私たちにも、神は言葉を語り続けて下さる、種を蒔き続けて下さる。それでもわからないから、十字架について死んで下さった。その十字架を通して、弟子たちの心に蒔かれ続けていた福音の種が芽を出した。福音とは十字架を通して始めてわかる言葉なのだ。聖書をもらった、読んだ、わかった、教会に行った、救われた、そんな簡単なものではないのだ。
・弟子たちが本当の弟子になったのは、イエスの十字架を体験した後だった。捕らえられる事を怖れて逃げ出した弟子たちが、復活のイエスに出会って戻ってきた。その時、弟子たちは、イエスが自分たちの心の中にある石や茨を十字架で除いて下さったから、自分たちでさえ、豊かな実を結ぶ地に変えられた事を知った。その弟子たちの信仰告白がマルコ4:13-20にあるたとえの解説だ。この箇所は文献分析ではイエスの言葉ではなく、後代の教会事情を反映していると言われている。弟子たちは告白する「自分たちは、御言葉のために困難や迫害が起きてつまづいた。自分たちは、世の心遣いや富の惑わしの中で、御言葉を聞いても、実を結べなかった。しかし、イエスが十字架につかれて、自分たちを良い地に変えて下さった。もう、迷うことはしない」、弟子たちは、イエスのために死ぬことさえいとわない者に変えられた。
・道端、石地、茨の地、良い地の4種類の人間がいるのではなく、私たちの中に、4種類の発展段階があるのだ。最初は御言葉を語られても、見向きもしなかった。次に、自分が悩みを持ち、御言葉によって解決されるかもしれないと思い、すがった。病気の人がいやしを求めて教会を訪れるのがそうかもしれない。しかし、教会に来ても病気は治らない、失望して教会を去る人は、石地の段階かも知れない。また、イエスの言葉を聞き、感激してバプテスマを受けるが、会社や家庭生活が忙しくなると、次第に教会から離れていく、それは茨の地の段階だろう。自分もかつては、道端であり、石地であり、茨の地であったのだ。そのような者が、また教会に戻された。何年も何十年も、教会から離れていた人が、一つの出来事を契機に、教会に戻る出来事が起こっている。道端の固い地も、耕されれば良い地になる。石地も石が取り除かれれば、豊かな地に変わる。茨の地も、茨の除去を繰り返せば、農地として、豊かな実を生む。私たちが御言葉から離れていた時も、神はたゆまず私たちを気にかけ、私たちの畑を耕していて下さったのだ。だから、私たちは、今日ここにいる。
・その意味で、私たちに与えられる病気や、災いは、私たちを耕す、神の鍬、神の鋤なのかも知れない。その痛さで、悪い地も良い地に変えられていく。河野進という牧師が、このような詩を読んでいる「病まなければ」という詩だ。「病まなければ、捧げ得ない祈りがある。病まなければ信じ得ない奇跡がある。病まなければ、聴き
得ない御言がある。病まなければ近づき得ない聖所がある。病まなければ、仰ぎ得ない聖顔がある。おお病まなければ私は人間でさえもあり得なかった」。人は十字架を通らないと、福音の言葉を理解できない。私たちは、十字架でしか語り得ない言葉を語り続け、聞き続けていこう。伝道とは人をバプテスマに導くことではない。伝道とは、人をイエスの弟子に導くことだ。福音の種蒔きはバプテスマから始まるのだ。

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