江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年11月12日説教(創世記18:1-15、主に不可能なことがあろうか)

投稿日:2006年11月12日 更新日:

1.約束を信じ続けることの困難

・クリスマスを前に、旧約聖書から御言葉をいただいています。今日は、前回に続き、創世記を読んでいきます。創世記は1−11章で天地が創造され、その中で、人間がどのように地に拡がって行ったかの原初史を描きます。まさに創世記です。そして12章から具体的な人間の歴史が記述されます。その最初の人物が“信仰の父”と言われるアブラハムです。アブラハムはメソポタミアのウルに住んでいましたが、75歳の時に、神は彼を召されます「あなたは生まれ故郷、父の家を出て、私の示す地に行きなさい」(12:1)。何故、アブラハムが選ばれたのか、また何故75歳になってから召されたのか、誰にもわかりません。アブラハムにもわかりません。わからなくとも、アブラハムは内心から呼びかける神の声に従い、「行き先も知らないで出て」行きました。そのアブラハムに対して神は祝福を約束されます「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」(12:2)。
・アブラハムはカナンの地に入りました。今日のパレスチナです。神はアブラハムに約束されます「見えるかぎりの土地をすべて、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」(13:15-16)。アブラハムは子がいませんでしたが、この約束を信じます。しかし、子はなかなか与えられず、アブラハムと妻サラは次第に年を取っていきます。そのアブラハムに主が再び現れます「私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」(15:1)。アブラハムは反論します「わが神、主よ。私に何を下さるというのですか。私には子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」(15:2)。妻は不妊で、自分も年をとった、もう子は生まれない。財産を受け継ぐのは召使だと彼は思っています。しかし、主はそうではないと言われます「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」(15:4)。
・さらに時が流れました。アブラハムには依然、子が与えられません。ここに至って、信仰と現実の妥協が始まります。妻サラが一つの提案をしました。「主は私に子供を授けて下さいません。どうぞ、私の女奴隷のところに入って下さい。私は彼女によって、子供を与えられるかもしれません」(16:2)。結婚して何年にもなるのに妻は懐妊しません。彼女は子を生めない体なのかもしれない。アブラハムはサラの提案を受け入れ、召使のハガルを床に入れ、ハガルは身ごもります。しかし、このことがアブラハム一家に思いもかけない波乱を引き起こします。アブラハムの子を身ごもったハガルが、女主人サラを見下すようになるのです。サラは泣き、ハガルは勝ち誇ってイシマエルを生みます。子が与えられました。しかし、アブラハム一家には喜びはありません。この子は約束の子ではなかったのです。

2.信じない者をも顧みられる主

・さらに時が流れ、アブラハムは100歳になっていました。主は再びアブラハムに現れます「私はあなたの妻サラを祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。私は彼女を祝福し、諸国民の母とする」(17:16)。アブラハムは心の中では笑いました。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」(17:17)。「子を与える」との約束は果たされないままに二人は高齢になり、サラは月のものもなくなっていました。老齢になった妻が子を産むことができるはずがない。アブラハムは神の言葉を笑いました。笑わざるを得ない状況だったからです。
・それからしばらくして、三人の旅人がアブラハムの前に現れます。それが今日読む創世記18章です。砂漠の地では、旅人を丁寧にもてなすのが礼儀です。アブラハムは立ち上がり、サラに命じてパンを焼かせ、自らは子牛を選んで召使に調理させ、旅人をもてなしました。アブラハムが食事の給仕をしていた時、旅人の一人が言いました「来年の春、私はかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生まれているでしょう」(18:10)。この旅人たちは主の使いだったのです。
・子を与えるという約束は何度も為されましたが、実現しないうちに、アブラハムは100歳に、妻は90歳になっています。いまさら子を与えると言われても信じることは出来ません。サラはその預言を聞いて笑いました「私は衰え、主人もまた老人であるのに、私に楽しみなどありえようか」(18:12)。サラは神の約束を信じません。アブラハムも信じていません。あまりにも長い間、約束は果たされず、望みは尽きていました。信じることが出来ない状況に置かれていたのです。絶望が不信仰を生み、不信仰が嘲笑を生みました。
・二人とも高齢になり、妻は不妊でした。そして今や妻は月経さえなくなってしまった。二人が信じることが出来なかったのは当然です。しかし主の使いは言います「主に不可能なことがあろうか」(18:4)。やがて、約束通り、サラに子が与えられました。サラは喜び、主に命じられた通り、イサク=笑いと名づけます。「主は私に笑いを与えて下さった」、サラとアブラハムは喜びます。やっと約束が果たされたのです。このイサクからヤコブが、ヤコブからイスラエル12部族を形成する息子たちが、その息子の一人ユダの家系にダビデが、ダビデの家系からイエスがお生まれになります。イサクなしにキリストなし、アブラハムの信仰の苦闘なしにはクリスマスの喜びは無かったのです。創世記はアブラハムとサラが、神の約束を信じ続けることが出来なかったことを隠しません。人間は、絶望的な状況に置かれた時、約束を信じ続けることはできないのです。アブラハムとサラが「主に不可能なことはない」と信じるに到ったのは、約束が実現したからです。

3.その神を信じていく

・今日の招詞に創世記22:8を選びました。次のような言葉です「アブラハムは答えた。『私の子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる』。二人は一緒に歩いて行った」。イサクが成長した時、神はアブラハムに「イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命じられます(22:2)。イサクをほふり、犠牲として、ささげよとの命令です。イサクは何十年間もの祈りの結果、与えられた子です。イサクを通して子孫を星の数ほどに増やすと約束された子です。生まれた時には、笑いが、歓喜が、その両親を包んだ子です。「その子を殺せ」、「何故」、アブラハムには神の御心がわかりません。しかし、彼は一言も反論せず、従います。彼はイサクを連れてモリヤの山に向かいます。途中でイサクは父に尋ねます「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」。それに対するアブラハムの返事が今日の招詞です。「子よ、必要なものは神が備えて下さる」。
・創世記をここまで読んできて、何故アブラハムに、こんなにも長い間、子が与えられなかったのかがわかってきます。何故、二人が高齢になるまで、約束が実現しなかったのかがわかってきます。長い、辛い、年月を通してイサクが与えられ、主は約束を守られる方であることをアブラハムは知りました。望み得ない状況の中で、約束が果たされることを見て、「主に不可能はない」とアブラハムは知りました。不可能を可能にされ、約束を守られる方であれば、イサクをささげよとの命令に意味があることを信じることが出来ます。何故イサクをささげよと言われるのかわからないが、この方が言われる以上、従っていこう。必要なものは備えて下さる、アブラハムはそう信じました。だから一言も反論せずに、イサクをささげようとするのです。
・アブラハムがモリヤの山に着き、イサクに手をかけて殺そうとした時、主が介入され、止められます。そしてイサクの代わりに一匹の羊が与えられ、アブラハムはその羊を焼き尽くす献げ物としてささげます。主が備えて下さったのです。“主は備えて下さる”、ヘブル語では「アドナイ・エレ」(口語訳)、あるいは「ヤハウェ・エレ」(新共同訳)と言います。“備える=エレ”は、英語では“provide”です。”pro=前もって、vide=video=見る、前もって見る、ここから“Providence=摂理”という言葉が生まれました。信仰とは、この神の摂理を信じることです。私たちは偶然に生まれ、偶然に生き、偶然に死ぬのではなく、神によって今生かされていることを信じることです。私たちの生涯の中で、健康が取り去られたり、仕事に行き詰ったり、家族関係に悩むことは、これまでもあったし、これからもあるでしょう。何故このような苦しみがあるのか、わからない時もあるでしょう。わからなくとも良いのです。すべては主の摂理に中にあるのであれば、いつかわかる時が来る、その時を待てば良いのです。
・アブラハムが体験したことは私たちにも起こります。その時、アブラハムの信仰の言葉、“アドナイ・エレ=”という言葉を、私たちが持つことが出来れば、人生はそれで良いのです。世の中では、多くの人が絶望の中で自殺しています。私たちは彼らに、どのような状況の中でも主が道を備えて下さることを伝え、その命を救う責務があります。御言葉は命にかかわる言葉なのです。私たちの人生の究極目標は何なのでしょうか。約束の土地をいただく、あるいは約束の子をいただくことなのでしょうか。最終的には、土地も子もいらないのではないでしょうか。主が共にいませば、主が備えて下さればそれでよい、ですからアブラハムに「あなたは子を捨てることが出来るか」と神は問われました。“アドナイ・エレ”、この信仰をいただければ他に何もいらないのではないか、この信仰があれば私たちは充実した人生を送りうる、それをアブラハムの生涯は示しているのではないか、そう思えてなりません。

注)旧約聖書の年齢の数え方は、現代の私たちと違っていたと言われています。アブラハムは75歳で召命され、100歳でイサクを生んだとされていますが、今日の尺度で考えれば、年齢を七掛けすると良いようです。すなわちアブラハムが50歳、サラが40歳の時に二人は召され、長い間子を与えられず、アブラハム75歳、サラ65歳のときに子を与えられたと考えたほうがより自然であると思われます。

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