1.篠崎教会とコリント教会
・猿渡亨兄弟が8月12日に天に召された。兄弟は36歳の時に新小岩教会でバプテスマを受けられたが、7年後の1969年に篠崎教会を立て上げるために、この地に移って来られた。以来35年間、兄弟はこの教会のために働いて来られた。その間、いろいろな出来事があったが、悔やまれる出来事は、教会内で幾度も争いが起こり、そのことによって集められた民が散らされて行ったことである。兄弟は教会の執事を長く勤められ、それらの出来事を見つめながらも、ご自身はこの教会に残り続けられた。私たちはこの過去の歴史を教訓として学びながら、兄弟のいないこの篠崎教会を再び立て上げていく役割を持つ。
・今日、私たちはコリント第一の手紙3章から、御言葉をいただく。コリント教会も、私たちと同じ問題を持っていたからだ。その問題が3章4節に示されている。「ある人が『私はパウロにつく』と言い、他の人が『私はアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか」とパウロは書く。何があったのだろうか。手紙の他の箇所や、パウロの生涯から推測すると、次のような事情があったようだ。コリント教会は起源50年ごろにパウロの開拓伝道により創設された。パウロはコリントに1年半滞在して教会の基礎を築き、その後をアポロに託して、エペソに移った。アポロはアレキサンドリア出身の雄弁家で、聖書に精通し、その説教は多くの人を魅了した。アポロに惹きつけられた人々はこれまでのパウロの路線から、アポロの名の下に新しい方向に導かれることを望むようになって行った。他方、創設者のパウロからじかに教えを受け、バプテスマに導かれた人々は、そのような動きを、教会を誤った方向に導くものだと強く反対した。
・アポロは雄弁家でその説教はすばらしかったし、外見も立派だったと伝えられている。他方、パウロは朴訥でその説教は難しかったらしい。〓コリント10:10によれば、コリント教会のある人たちはパウロを「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と評していたようだ。教会の人々はその外見や説教で二人を比べ、私はアポロに、私はパウロにと争っていた。またコリント教会にはその他にもペテロ派と呼ばれるユダヤ人たちもおり、彼らは律法よりも恵を説くパウロに違和感を持っていた。そのような教会内部の争いがエペソにいるパウロにも聞こえてくるほどに大きくなり始めていた。
2.何故、このような出来事が起こるのか
・このコリント3章を読む時、いつもため息が出る。人間はバプテスマを受けても、受ける前と同じことばかりしているのだろうかというため息である。私の出身教会は中野であるが、中野教会でも35年間牧会された牧師が引退し、後任に新しい牧師を招聘した時、新旧牧師の間で教会運営についての意見が対立し、その争いに巻き込まれた執事が去っていくという出来事もあった。東部地区でも、昨年は千葉教会の、本年は津田沼教会の牧師が期の途中で辞任した。篠崎においては、ある時には、牧師と信徒が対立し、ある時には信徒同志で教会運営についての考え方の違いが表面化し、その度ごとに信徒が散らされていくと言う悲しみがあった。
・教会も所詮は人間の集まりであり、意見の対立や争いはやむをえないという考え方があるが、パウロは、教会はそれではいけないと言う。彼はコリントに次のように書き送った。「(あなた方は)相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」(3:3)。しかし、あなた方は肉の人ではなく、霊の人、キリストの霊をいただいて新しくされた人なのだ。あなた方がバプテスマを受けた時、あなた方の市民権はこの世から天に移され、あなた方は天の市民権を持ちながらこの世を生きる者にしていただいたのだ。それなのに、いつまで世の人と同じ歩みをしているのですか、それではキリストは何のために十字架につかれたのですかとパウロはここで述べている。
・パウロは続ける「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(3:5-6)。教会を立て上げるのは、パウロでもアポロでもなく、神なのだ。
・私たちはみな自分が正しいと思って、その意見を述べる。正しい意見同士が衝突して争いが起きる。コリントでは異教の神殿に捧げられた肉が市場に出回っていたため、肉を食べることを罪だと恐れる信徒達もいた。パウロは全ての食物は神の祝福であり、肉を食べることもかまわないと思っていたが、「肉を食べることをためらう人がいる以上私も食べない」と言う。正しいことがいつも益になるわけではない。自分が正しいと思っても、そのことによって誰かが傷つくならば、正しさの主張を取りやめることこそ愛だ。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(〓コリント8:1)。教会が教会でなくなるのは、人が自分の栄光を求め始めた時なのだ。
3.神の宮としての私たち
・今日の招詞に〓コリント3:16-17を選んだ。今日の話の続きの部分だ「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」
・パウロはコリントの人たちを励ます。「目を覚ませ、あなた方は神の霊を受けているではないか。あなた方は神の神殿であり、神はあなた方の中に既に住まわれておられる。だからそれにふさわしく歩きなさい」。教会は人間の集まりだ。人間の集まりだから、そこには意見の相違や対立も起きるだろう。それにもかかわらず、神はあなた方を用いて教会を形成させ、その伝道を通じて多くの人に福音を伝えようとしておられる。目を覚ませ、聖徒らよ。あなた方はどのように未熟であっても、神に選ばれた者、神の民、神の聖徒なのだ。
・神と人との関係は、その人と他者の関係を見れば、わかる。ある人が他者と不和である時、その人は神とも不和なのだ。ある人が誰かを憎む時、その人は神を憎んでいるのだ。私たちは、キリストを通して、神が敵ではなく、友である事を知った。神は私たちの罪を攻め立てる方ではなく、その罪を赦される方である。だから、私たちも他者の罪を責めるのではなく、赦していく。私たちが相手の罪を数えることを止めた時に、妬みや争いは消える。教会は赦された罪人の集まりなのだ。罪びとの自分が赦されてこの場に集うことが出来る、このような感謝を持って、猿渡亨兄弟がいなくなったこの教会を、共に形成していきたい。