江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年8月28日説教(1コリント1:10-17、私からキリストへ)

投稿日:2005年8月28日 更新日:

1.コリント教会の分裂騒動

・教会はキリストの体と言われる。キリストの名によって召された者が集められ、神の言葉を聞き、それぞれの場で福音を伝えるために遣わされる。ところがその教会の中で争いが生じる事がある。その争いは、多くの場合、神学や教理をめぐる争いではなく、人間的な結びつきによるものだ。何故教会でこの世と同じような人間的な争いが起こるのか。このような争いを私たちはどのように解決したらよいのか、それを私たちに教えるのが、コリント教会の経験だ。

・コリント教会はパウロが開拓伝道した。パウロは1年半コリントで働いた後、そこを同僚のアポロに任せてエペソの開拓伝道に向かった。ところが数年後、コリント教会が内紛の中にあるとの報告がパウロにもたらされた。教会内の人々が「私はパウロにつく」、「私はアポロに」、「私はケパに」、「私はキリストへ」などと言い争っているとの報告だった。教会の人々の気持ちがばらばらになり、それぞれが自分たちの正しさを主張し、他の人々と対立し始めていた。パウロに導かれてバプテスマを受けた人々はパウロの教えを大事にした。パウロの後継者アポロは博識で雄弁だった。アポロの時代に信徒となった人々は、アポロこそ教会の礎と思っただろう。そのアポロもまたコリントを去り、この手紙が書かれた頃のコリントは無牧で、エレサレム教会からの巡回伝道者が時折訪れ、回心者にバプテスマを授けていたらしい。その人たちからバプテスマを受けた信徒たちは「エルサレム教会の指導者ペテロこそ本当の使徒だ」といってペテロ派になったのかも知れない。教会内の分派争いにうんざりしていた人々は「私はキリストにつく」と言って新しいグループを形成した。こうしてコリントの教会は分裂状態に陥っていた。

・このような教会の混乱は今日もある。長い間牧会をされた牧師が引退されて、新しい牧師が招かれた時、その牧師は自分なりのやり方で教会を導こうとする。その時、前任牧師を慕って来た人々は新しい牧師のやりかたに不満を持ち、「昔は良かった」とつぶやき始める。他方、新しい牧師からバプテスマを受けた人々は前牧師派を「古い人たち」として排撃し始める。こうして教会内に争いが始まる。コリント教会と同じだ。

・パウロはこの問題を人間的に解決することを拒否する。それは「困った」問題ではなく、教会とは何かが問われているからだ。だから信仰によって乗り越えるべき問題と考える。パウロはまず人々に問う「キリストはいくつにも分割されたのですか」(1:13)。教会は人間の連帯によって形成される「仲良し共同体」ではない。教会はキリストの体であり、信仰共同体だ。キリストが頭であり、指導者もキリストに仕える僕に過ぎない。僕であるパウロやアポロが、何故主人であるキリストより重視されるのか。キリストはどこに行ったのか。

・次にパウロは十字架とは何かと聞く。「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか」。キリストがあなたがたのために死んで下さった。それなのに、何故パウロやアポロがキリストよりも大事になるのか。同じ十字架を仰ぎながら信徒同志で争う、十字架は飾りに過ぎないのか。

・最後にパウロは言う、「あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか」。「名によって=エイス ツウ オノマ」、「名の中へ」へとの意味である。あなたがたはバプテスマを受けて、キリストの名の中に入れられたのだ。あなたがたはキリストに属する者とされた。それなのに誰がバプテスマを授けたかにどうしてこだわるのか。パウロによってバプテスマを受けた者はパウロ派になり、アポロからバプテスマを受けた人はアポロ派になる。バプテスマとは水に入ってキリストと共に古い自己に死に、水から引き上げられてキリストと共に新しく生きることだ。そのキリストに結ばれる行為が何故、人に結ばれる行為となるのか。

2.私からキリストへ

・今日の招詞に申命記18:13-14を選んだ。次のような言葉だ「あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない。あなたが追い払おうとしているこれらの国々の民は、卜者(ぼくしゃ)や占い師に尋ねるが、あなたの神、主はあなたがそうすることをお許しにならない」。

・申命記は民が40年の荒野の旅を終えて、約束の地に入ろうとするその時に、モーセが民に語った遺言だ。モーセは言う「あなたがたは荒野に導かれた時、水がない、食べ物がないと不平を言った。神はあなたがたに水を与え、マナを与えてくださった。しばらくするとあなたがたは『マナには飽きた。エジプトでは肉もたまねぎもあった。エジプトに帰ろう』と不平を言い始めた。その不平は私とアロンに向けられたが、本当は自分の思いのままにならない神に対するつぶやきだった」。

・彼は続ける「私が十戒を受けるためにシナイ山に登って不在の時、あなたがたは金の子牛を造ってそれを拝んだ。自分たちの意のままにならない神を、意のままになる偶像に取り替えたのだ。そのあなたがたの不信仰を神は忍耐され、約束の地に導かれた。その地の人々は占いや魔術で神の御心を知ろうとする。しかし、あなたがたはそうしてはならない。あなたがたは神があなたがたを愛され、導かれることを40年間見てきたではないか。神の導きに従う時、占いは要らないではないか」。

・聖書は占いを一貫して否定する。占いや魔術は、神の意思を人間の側から知ろうとする試みだ。それは自分の願うことを神にしてほしい、もしこの神がしてくださらなければ、他の神を求めることだ。それは神を信じることでなく、神を利用する行為だ。神はあなたがたを愛し、導いてくださるから、その導きを待てば良い。しかし、人は待てずに自分から知ろうとする。救いを自分の手でつかみたい。だから、律法を守れば救われる、バプテスマを受ければ救われる、煙草や酒を止めれば救われると言い始める。それは救いを神に強制する行為だとモーセは言う。

・礼拝の中にも偶像礼拝は顔を出す。人は自分たちの願いを語ってくれる説教者を求める。いやなこと、自分の罪の現実は見たくない。それを語る説教者は排撃する。信仰とは神が神であり、人は人であることを認めることだ。自分を生かして下さる神の言葉を聞くことだ。従いたくないことでも従うことだ。讃美歌73番でボンヘッファーは言う「例え主から差し出される杯は苦くとも、怖れず感謝を込めて、愛する手から受けよう」。神は私たちを愛して下さる、私たちを良い方向に導いて下さる。その導きが私の目に、苦い杯と見えても感謝して受けていこう。投獄されていたボンヘッファーはやがて銃殺される。神は銃殺を通してボンヘッファーを祝福された。イエスは十字架を通して復活の栄光に預かられたではないか。これが聖書の信仰だ。

・コリント教会で何故争いがあったのか。それぞれの人々が自己中心にものを考えたからだ。自己の救いしか考えなかったからだ。「私はパウロに」、「私はアポロに」、「私はケファに」、私しかないではないか。信仰でさえ、自己中心に陥る。八木重吉は歌った「キリストわれにありと思うはやすいが、われキリストにありとかすかに感じるにいたりしまでの道の遠さよ」。「キリストわれにあり」、自分の中にキリストを迎える、キリストにあって自分が清められていく。しかし主語は依然として私だ。それは未熟な信仰だ、未熟だから他者と争うのだとパウロは言う(〓コリント3:3)。「われキリストにあり」、自分がキリストの中に死んでいく、私ではなくキリストが生きる。私がキリストになったとき、成熟した信仰になる。成熟した信仰者が集まる時、教会の中では争いは起きない。私ではなく、キリストが何を望んでおられるかが行動基準になるからだ。

・私たちはキリストに出会い、神の子としていただいた。私たちは既に救われている。だからパウロは私たちを「聖なる者」と呼ぶ。私たちがそれにふさわしいからでなく、もう神のものとなっているからだ。私たちが救われ、召されたのは、「もう一人の人」に救いを伝えるためだ。「私の救い」という未熟な段階は終わった。「もう一人の救い」という成熟した信仰が期待されている。「私の救い」を中心にするから、教会内で争いが起きる。その争いは新しい人々に福音に対する不信を持たせ、天国への道を閉ざす。「もう一人の救い」を閉ざすのだ。それはキリストが望まれていることではない。私たちはこの争いを信仰で乗り越えなくては為らない。信仰による一致とは「キリストわれにあり」ではなく、「われキリストにあり」との成熟した信仰によって可能になる。私たちは「良き人生」ではなく、「偉大な人生」に招かれているのだ。

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