1.山上の変貌
・ガリラヤで伝道しておられたイエスは「エルサレムに行け」との神の声を聞かれた。エルサレムはイエスの反対者たちの牙城であり、そこには十字架の死が待っている。イエスは準備の時をもたれるために、弟子たちとピリポ・カイザリアに行かれた。静かな所へ行き、祈るためである。ピリポ・カイザリアで、イエスは弟子たちに「あなた方は私を誰と言うか」と聞かれ、「あなたこそメシア、神のみ子です」という弟子たちの告白を聞かれた。その弟子たちに、イエスは「これから向かうエルサレムでは十字架が待っており、あなたたちもまた苦難に会うだろう、それでも従って来なさい」と言われた。弟子たちは動揺した。イエスがメシア=救い主であることを信じていたが、救い主が十字架で殺されるとは考えてもいなかったからだ。イエスは弟子たちを連れて、山に登られた。山上で、弟子たちは不思議な体験をする。「イエスの変貌」と呼ばれる体験である。受難節第4週、受難日(3月25日)も近い今日は、この箇所から御言葉を聞きたい。
・イエスは弟子たちを連れて、山に登られた。イエス御自身、御自分が神の子としての使命を与えられて、世に遣わされたとの自覚を持っておられたが、本当に十字架で死ぬことが最善の道であるのか、心の内に一抹の疑いは持っておられた。また十字架の死に恐怖をも感じておられたであろう。神の御心を改めて聞きたい、そういう思いがイエスの内にもあった。聖書では、山は神と出会うための場所、日常を離れて祈るための場所である。旧約の預言者たちも、苦難の時に、山に登り、神の声を聞いた。
・イエスは山に登られ、夜を徹して祈られた(ルカ9:29)。そのイエスに、神はモーセとエリヤを遣わして下さった。モーセとエリヤも、その存命中、山に登り、神の声を聞いている。モーセはモーセはエジプトで奴隷であった民を救い出して、約束の地に導くが、その途上、民は繰り返し、モーセに抗った「エジプトを出るのではなかった。あそこでは肉を食べられたのに、この荒野には何もない」、神がマナ=パンを与えられると民は言った「マナばかりで飽きた、肉や野菜を食べたい」。モーセは山に登り、神に苦衷を訴え、励ましを受けて、山を降りた。エリヤも同じ体験をしている。フェニキアの女王が偶像神をイスラエルに持ち込み、エリヤはこれと戦うが、女王に命を狙われ、逃れてシナイ山に登り、そこで神と出会う。神から言葉をいただき、力を与えられて、下山する。神の委託を受けて、人間の間で重荷を負う預言者たちは、神に出会うために山に登り、力をいただいて、地上の現実に戻る。今回、イエスのもとに二人が遣わされたのは、同じ苦難を経験した者として、イエスを励ますためであろう。ルカによれば、二人は「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(ルカ9:31)。最後と訳されている言葉の原語はエクソダス=脱出、旅立ちの意味だ。十字架は終わりではなく、新しい旅立ちであることを二人はイエスに話し、励ました。
・イエスがモーセとエリヤと話している時、イエスの姿が、太陽のように輝き、服は光のように白くなったとマタイは記す(マタイ17:2)。ペテロは感激して言った「主よ、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。私がここに仮小屋を三つ建てましょう。」。弟子たちは恍惚状態の中にあった。イエスが神の子である紛れもない証拠を示され、この状態がいつまでも続けば良いと願った。弟子たちはエルサレムに行きたくない、だからここに小屋を建てて住もうと提案した。しかし、ペテロの声をさえぎるように神の声が天から響いた「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」(17:5)。「私は自分の意思を既にイエスに伝えている、イエスの言う通りに従いなさい」との声である。気がついてみると、モーセとエリヤはいなくなり、イエスだけがおられた。
・イエスは弟子たちを連れて山を下りられる。神の御心を確認出来た以上、ここに留まる必要はない。御心に従ってエルサレムに行く。そこで十字架が待っていようが、逃げない。地上で鞭打たれ、十字架に付けられることを通して、神は御自分の栄光を現されようとしておられる。その御心がわかれば十分だ。
2.この出来事の意味するもの
・この山上で何があったのかを私たちは知らない。何らかの神秘体験、あるいは幻視体験を弟子たちがしたことは事実だろう。今日の招詞に第二ペテロ1:16−19を選んだが、その中でペテロは自分が体験した出来事を次のように述べる。「私たちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、私たちは巧みな作り話を用いたわけではありません。私たちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これは私の愛する子。私の心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。私たちは、聖なる山にイエスといた時、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、私たちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」。
・この手紙が書かれたのは、ペテロの晩年だ。教会は迫害の中にあり、ペテロも自分が殺される時が近づいているのを知り、信徒たちに励ましの手紙を書く。信徒たちは、迫害の中で信仰が揺らぎ始めていた。仲間が殺されても、神は何もして下さらない、守って下さらない。何故、イエスをキリストと信じるだけで殺されねばならないのか、信徒を守ることの出来ない神は本当の神なのか。疑い始めていた信徒たちにペテロは述べる「私たちが話したことは作り話ではない。私たちはイエスと共に山に登り、そこでイエスが神の栄光に包まれるのをこの目で見た。そして、これは私の愛する子、これに聞けという言葉をこの耳で聞いたのだ。イエスの十字架の死もその復活も見た。イエスは神の御子だ。この御子は再び来られるから、忍耐を持ってその日を待ちなさい」と。
3.十字架の主に従う
・信仰の世界において、神秘的な体験あるいは超越的な出会いはある。パウロの回心は、ダマスコ途上での復活のイエスとの出会いから来たし、アウグステイヌスやルターも不思議な体験をしている。死を前にした人が、突然のまばゆいばかりの光を見るとの証言も多い。しかし、今日の聖書個所で大事なことは、不思議な出来事があったということではなく、この出来事を通して力をいただき、山を降りてエルサレムに向かうこと。御心であれば、理解できなくとも、従って行く時に、道が開けてくるということだ。死ぬとはエクソダス、新しい旅立ちであることを弟子たちは示された。彼らは、理解はしていない。しかし、やがて理解するようになる。
・人は宗教に現世利益か現世離脱のどちらかを求める。現世利益とは「信仰すれば治ります」とか、「信仰すれば幸せになります」とか言う教えで、苦難の中にある人はわらをもつかむ思いですがる。しかし、信じても治らないし、苦しみは去らない。別の宗教は、この世を離れ、霊の世界との交流による救いを提唱する。聖書は「信じれば治る」とは言わない。また、「この世を離れて修行しなさい」とも言わない。弟子たちに示されたのは、イエスと共に行けば、あなたがたにも危険が及ぶだろうが、それでも行きなさいということだ。弟子たちには十字架の意味がまだわからない。それでも彼らはイエスにしたがって、エルサレムについて行く。
・現世利益も現世離脱も共に、苦しみからの解放を求める人間の作り出した幻想だ。幻想は破れる。そのような幻想に留まるのではなく、現実を直視し、その現実から逃げるなと聖書は教える。人は誰も十字架の道など歩きたくない。しかし、十字架を負って始めて知る人生の豊かさがある、それを知りなさいと説く。河野進という人がいる。岡山ハンセン病療養所で50年間伝道した牧師だ。彼の書いた詩に「病まなければ」という詩がある。
「病まなければささげ得ない真実な祈があり、きき得ない聖書の慰があり、ふれ得ない愛のみ手があり、下り得ない謙遜の谷があり、上り得ない清い山頂があり、見通し得ない輝く展望があり、病まなければ感謝の微笑みさえ捧げ得なかった」。50年間、ハンセン氏病の人に付き添い、その重い病の中に、神の祝福を彼は見た。
・私たちも重荷を負うことによって、人生が豊かにされていく。教会に来て、心が慰められ、清められたということだけに留まる人は、神に出会うことはないだろう。その清められた思い、強められた力を現実の生活の場で生かしていく時、神に出会う。日常の煩雑から逃れて山に登るとは、私たちにとっては、日曜日に教会に来ることだ。教会に来て力をいただき、山を降りる=日常の現実に戻る。それぞれの場所で神の御心を問いながら暮らす。パウロは言う「兄弟たち、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12:1)。礼拝は日曜日から始まり、土曜日まで続く。山に登るのは、この地上の生活を生きるための力をいただくためだ。そして山を降り、十字架を再び負って歩いていく。そういう生き方をマタイ17章は私たちに示している。