江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年3月13日説教(マタイ20:17-28、キリストの杯を飲む)

投稿日:2005年3月13日 更新日:

1.イエスの受難予告

・イエスはピリポ・カイザリアで弟子たちに言われた「私はこれからエルサレムに行く。そこで捕らえられ、殺されるだろう」。それに対してペテロは抗議した「そんなことを言ってはいけません。メシアが殺されるなどあるはずがありません」。イエスは弟子たちを連れて高い山に登られ、神の言葉を聞かれた「これは私の愛する子、これに聞け」。山上の出会いで、自己の使命を再確認されたイエスは、エルサレムと十字架に向かって歩き出された。弟子たちもやむを得ず、従って来た。エルサレムの近郊まで来た時に、イエスは三度目の「受難告知」をされる。今日、私たちが読む聖書個所だ。

・イエスは自らの死を予期されていた。バプテスマのヨハネが殺されたように、自分も殺されるであろう。それが神の御心であることは承知しておられたが、それでも心おののくものを感じながら、イエスは歩かれる。弟子たちそのイエスの気持ちをわかっていない。その弟子たちに心の準備させるために、イエスは改めて受難告知をされた「今、私たちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」(マタイ20:18−19)。人の子は渡される、人の子はよみがえらせられる。神的受動態と呼ばれる言葉遣いだ。主語は神であり、人ではない。神が十字架と復活を導かれるとのイエスの理解である。それでも人として死は怖い。

・弟子たちはカイザリア山上で栄光に輝くイエスを見た。エルサレムに着けばイエスは王座につかれる、イスラエルの王になられると弟子たちは期待している。ヤコブとヨハネは、その時に、自分たちにも相応の地位が与えられることを願う。だから、二人は母親の口を通してイエスに言う「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(20:21)。王の右に座る者は右大臣、左に座る者は左大臣、いずれも人としての最高位だ。母親は息子のために、なりふりかまわず願う。ヨハネ19:25によれば、兄弟の母親サロメはイエスの母マリアの姉妹とされている。従って、ヤコブとヨハネはイエスの従兄弟であり、特別の待遇がされてもおかしくないと母親は考えたのかも知れない。イエスは兄弟たちに対して言われた「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。この私が飲もうとしている杯を飲むことができるか」(20:22)。杯を飲む、十字架の苦難を受けるという意味だ。これからエルサレムで何が起こるのか、知っているのか。神の子が栄光の座につくとは、十字架で死ぬことなのだ、それがわかっているのか。二人はイエスの杯を飲むことが「出来ます」と言った。しかし、エルサレムで起きることを彼らは理解していない。イエスが捕らえられた時、二人もまたイエスを捨てて逃げている。

・他の弟子たちも理解していない。彼らは二人の抜け駆けに腹を立てている。彼らもまたイエスの栄光の時に、良い地位につきたいのだ。だからこそ、ここまで従って来たのだ。その弟子たちにイエスは言われた「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(20:25-27)。この世では、人の上に建って立って権力を振るうことが偉いことだと言われている。しかし、神の国では違う。そこでは仕えることこそ偉いのだ。そしてイエスは言われた「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(20:28)。イエスは王座につくためではなく、十字架にかかるために来られた。その十字架を通して、人は神の愛を知り、神に戻ることが出来る。

2.キリストの杯を飲む

・今日の招詞にマタイ20:13−14を選んだ。次のような言葉だ「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ』」。

・「ぶどう園の労働者の例え」の最後で、ぶどう園の主人が労働者に話す言葉だ。例えのあらすじはこうだ「ぶどうが収穫期になり忙しい。主人は臨時の労働者を雇うために朝の6時に市場に行き、1日1デナリの約束で何人かを雇った。もっと人手がいる、朝の9時にも労働者を雇った。まだ足らない。12時にも、3時にも労働者を雇う。最後の労働者は5時になって雇われた。日が落ちて1日の労働が終わった。主人は最後に雇った労働者を呼び、彼らに1デナリの賃金を払った。1日分の賃金だ。1時間しか働かない労働者に1デナリが払われたことで、12時間働いた労働者の期待は膨らむ。1時間1デナリであれば、私たちには12デナリ払われるかも知れない。しかし、払われたのは同じ1デナリであった。文句をいう労働者に主人は言う「1日1デナリの約束であなたは雇われた。何が不服なのか。私が1時間しか働かない人に1日分を払ったことがあなたがたには不服なのか」。

・1時間しか働かない労働者は、ほとんど主人の役に立っていない。しかし主人は彼にも1日分の賃金を払う。その賃金がないと、家族はその日のパンを食べることが出来ないからだ。私たちは自分が役に立っている、12時間働いたと思うから、1時間しか働かない人が同じ賃金をもらうことに抗議する。考えてみなさいとイエスは言われる。「あなたが12時間働くことが出来たのは、神があなたに健康な体と働く場を与えてくれたからではないか。もしあなたが今日怪我をして、働くことが出来なくとも、神はあなたに1日分の賃金を下さるだろう。神の恵み、神の憐れみとはそのようなものだ」とイエスは教えられた。

・それにもかかわらず私たちが求めるのは、他の人よりも多い報酬だ。ヤコブとヨハネは他の弟子を差し置いて、一番良い地位を求めた。自分たちこそ弟子の中でも、最もイエスの役に立っていると思っているからだ。この世は、役に立つ者こそ価値があるとする。役に立つとは他者からみた視点だ。ヤコブとヨハネの母は、息子たちが最高の位に座ることを望み、息子たちも期待に応えようとする。成功すれば母親が認めてくれるからだ。ヤコブとヨハネは、自分の希望ではなく、母親の希望を生きている。母親もそうだ。彼女は息子たちの成功を通して、世の中から認められることを求めている。現代の私たちも同じ光景を知っている。会社に行けば、会社の業績が上がることに生きがいを見出している、多くの社員を見出せる。学習塾に行けば、子供の成功に人生をかける母親たちを見出せる。彼らは自分の人生を生きていない。会社の成功や息子の成功が人生を支えている。それがなくなったら人生は崩れる。役に立つことこそ幸いだとするこの世の価値観は、他者の評価の上に人生を築くようなもので、永続しないし、人を幸せにはしない。

・母と息子たちの欲求は、他の弟子たちの憤慨を招く。二人の弟子が優位に立てば、自分たちはその風下に立つ、そんなことは承服できないからだ。ぶどう園の労働者の例えと弟子たちの論争の間にイエスの受難告知がある事に注目したい。イエスは二つの話を通して私たちに語っておられる。「父なる神は1日満足に働けない者にも1日分の賃金を下さる。弱い人間、役に立たない人間にも、生きることを許しておられる。そして私たちもいつかは弱い人間、役に立たない人間になる。その私たちをも生かして下さる神の恵みを知った時、私たちの心からわきあがる思いは感謝だ。その感謝が人に仕える行為へと私たちを導く。私は十字架にかかる。あなたたちも従ってくれば、神に出会う。私の杯を飲みなさい」。

・ヤコブは12弟子の中で最初の殉教者となった。ヤコブにとって杯とは殉教の死だった(使徒2:2)。ヨハネは長生きをしたが、最後にはローマの迫害で、パトモス島に流された(ヨハネ黙示録1:9)。ヨハネの杯は長い間の宣教の苦労だった。私たちもキリストの杯を飲もう。賀川豊彦は次のように書いている「神は最も卑しい人たちの間に住まれる。・・・神に会おうとする者は神殿に行く前に刑務所に行くが良い。教会に行く前に病人を見舞うが良い。聖書を読む前にこじきを助けるが良い」。

・仕える=ディアコネオーの名詞形ディアコノスは、教会の執事を指す。教会の牧師や役員の仕事は、教会に来る人々に仕える事だ。仕えるとは、キリストの杯を飲むこと、具体的には自分のためでなく、他の教会員のために生きることだ。自分の意見が正しいと思える時でも、教会全体の意見に従い、そのための重荷を担うことだ。私たちもこの篠崎の教会のためにキリストの杯を飲もう、その時、この教会は本当の意味で「神の教会」になる。

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