1.ヤコブ書と隣人愛
・今日、私たちはヤコブ書をテキストとして与えられたが、ヤコブ書は読まれることが少ない書簡だ。宗教改革者ルターはヤコブ書を「わらの手紙」と呼んだ。そこには戒めはあっても、福音=良い知らせはないと思ったからだ。ヤコブ書は律法について書かれている。全体が108節の短い手紙だが、そのうち58節、半分以上は命令文だ。「・・・しなさい」、「・・・してはいけない」という文章が満ち満ちている。そこには罪の指摘が多く、読んでも喜びがない。ルターの言う通りだ。しかし、繰り返し読むと、禁止命令の後ろに、読者に対する愛が浮かび上がってくる。道を踏み外しそうな子を心配し、「帰って来なさい」と訴えている。やはり大事な手紙だ。
・今日のテキストは2:8-13だが、その前には、教会の中で金持ちと貧乏人を分け隔てする実態があったことが指摘されている(2:1-7)。会堂に「金の指輪をはめた立派な身なりの人と、汚らしい服装をした貧しい身なりの人が入って来た」。「あなたは立派な身なりの人を会堂の上席に案内し、貧しい人は隅の席に案内した」。ヤコブは読者に問う「あなたはキリストを信じながら、このような分け隔てをするのですか」。富む人を尊重し、貧しい人を蔑視する、これは社会の慣わしだ。今回のアメリカのハリケーン被害でも、車がありお金がある人は避難し、無事だったが、車もお金もない黒人たちは避難できず、多くの犠牲者を出した。それが世の慣わしといえ、教会ではそうであってはならないとヤコブは言う。しかし、現実の教会でも、たくさん献金する人は尊ばれるし、献金の少ない人は発言力も少ない。礼拝中に汚い服装の人が入って来たら、私たちは眉をひそめる。ヤコブ書の指摘は当たっているから、私たちは聴くのが不快なのだ。
・今日のテキスト箇所の直後には、行いを伴わない信仰の実例が挙げられている。「着るものがなく、その日の食べ物にも事欠いている兄弟姉妹に対して、教会員の一人は言った『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』。しかし、彼はその兄弟に着物も食べ物も与えなかった」(2:15-16)。ヤコブは私たちを責める「キリストがそうするように教えて下さったのか。そうではあるまい。行いを伴わない信仰はそれだけでは死んだ信仰だ」。今回のハリケーンも当初から被害が予測され、避難勧告が出ていた。避難できる人は車や飛行機で避難した。避難する手段を持たない人には「非難しなさい」と言う言葉だけで、何の手段も提供されなかった。ヤコブ書の言う「言うだけで何も助けない」状況が被害を拡大した。この状況を私たちは気づいている。気づいているが見ようとしない、見たくないからだ。ヤコブ書は実に不愉快な方法で、「あなたは本当にクリスチャンか、あなたは隣人を愛しているのか」と迫ってくる。
・ヤコブ書は不愉快な手紙だ。しかし、神は私たちにヤコブ書を読めと命じられる。そして読み続けたとき、神はヤコブ書を通して真理を教えて下さる。2:8の言葉がそうだ「隣人を自分のように愛しなさい。これこそが最も尊い律法なのです」。イエスはどの戒めが最も大事かとの律法学者の問いに答えて言われた「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22:37-40)。ヤコブは福音書とは別の方法で教えを説く。しかし、その教えは福音=良い知らせだ。そして最も大事な福音として「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と述べている。
2.自分を愛するように隣人を愛しなさい
・今日の招詞にルカ10:36-37を選んだ。有名な「良きサマリヤ人」の例えの一節だ。次のような言葉である。「『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか』。律法の専門家は言った『その人を助けた人です』。そこで、イエスは言われた『行って、あなたも同じようにしなさい』」。この言葉は律法学者との問答の中で言われている。
・律法学者はイエスに問う「何をしたら永遠の命を受け継ぐことが出来るのでしょうか」。イエスは「神を愛し、また隣人を自分のように愛しなさい」と答えられた。律法学者は更に問う「私の隣人とは誰ですか」。それに対してイエスは「良きサマリヤ人の例え」を話される。追いはぎに襲われ、半殺しにされた旅人がいた。祭司が通りかかったが、係わり合いに為るのを恐れて、避けて行った。次にレビ人が来たが、同じように反対側を通って行った。三番目に来たサマリヤ人は、旅人を見てかわいそうに思い、自分のろばに乗せて宿屋まで運んでいった。この例えを話された後、イエスは律法学者に問われた「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。律法学者は「誰が私の隣人ですか」と訊ねた。彼は答えを知っている、自分の同胞、仲間こそが隣人だ。しかし今彼は追い詰められている。仲間である祭司もレビ人も同胞である旅人を見捨てた。彼らは隣人ではなかった。助けたのは異邦人のサマリヤ人だった。彼は答える「その人を助けた人です」。
・律法学者は「誰が隣人ですか」と尋ねた。それに対してイエスは「誰がその人の隣人になったのか」と尋ね返された。あなたは、同胞こそ隣人であると思いこんでいた。しかし、あなたの同胞は仲間を見捨て、隣人にならなかった。「私の隣人とは誰か」を問うとき、あなたは失望する。人間に期待をかけているからだ。「誰が隣人となるのか」を問い始めた時、あなたは神の御言葉を聞く「あなたが隣人になりなさい」。イエスはここで、教えを聞くだけでなく、実行することを求めておられる。
・「良きサマリヤ人の例え」と「ヤコブ2章の教え」は同じことを教える。律法学者は自分の同胞こそ隣人だと思っていた。同胞が隣人であるとは、同胞ではない異邦人は隣人ではないと言うことだ。ナチスがユダヤ人を迫害し始めた時、ドイツ人の多くは、ユダヤ人は自分の同胞ではないとして、見て見ぬふりをした。教会にホームレスの人が入ってきた時、彼は私の兄弟ではないから私たちは眉をひそめる。これがヤコブ書の言う「人を分け隔てする」行為だ。道を通りかかった祭司やレビ人も、追いはぎに襲われて倒れている人を見てかわいそうだと思っただろう。しかし、係わり合いになりたくないとして行き過ぎた。私たちが電車を待っている時、人身事故で電車が遅れると言うアナウンスを聴く。人身事故の大半は飛び込み自殺だ。私たちは同情しても迷惑だと思うだけだ。これは「着るものがなく食べるものもない人に、温まりなさい、食べなさいと言うだけで何もしない」というヤコブが指摘する人たちと同じ行為、行いのない信仰ではないだろうか。
・多くの人は何もしないが、する人たちがいる。「いのちの電話」という組織は自殺予防のための電話相談を行っている団体だが、元々はイギリスの「Good Samaritan」(良きサマリヤ人)という教会から始まった運動に起源を持つ。「行ってあなたも同じようにしなさい」と言うイエスの言葉に従おうとした人々だ。ナチスのユダヤ人迫害に対しても、多くの人が救済のために立ち上がった。アンネの日記で有名なフランク一家に住まいと食べ物を供給したのは普通のオランダ市民だった。生命の危険を冒してまで、ユダヤ人をかくまった多くの人がいた。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」というイエスの教えに従った普通の人々だ。
・私たちは隣人なしには生きていけない。だから私たちは教会に来る。一人では、いただいた貴重な信仰を維持できない事を知っているからだ。教会では私たちは兄弟姉妹に出会う。その人を隣人にするか、しないかは、私たちに委ねられている。教会の外にも多くの兄弟姉妹がいる。「あなたがその人の隣人になりなさい」。多くの人と関りを持つことによって私たちの人生は豊かになる。「あなたの周りに、あなたからの助けを、あなたからの親切な一言を待っている実に大勢の人がいるではないか。その人たちこそ、私からのプレゼントだ。彼らと友達になりなさい。彼らと関係を持ちなさい。助けられた旅人はサマリヤ人に感謝する。彼は隣人になることによって一人の友を得たのだ。その人こそ、あなたの人生を豊かにする人々だ」と神は招いておられるのだ。