1.ローマ13章を巡る議論
・今日、私たちはローマ13章を読むが、この箇所はキリスト者と政治について述べており、後世の社会に大きな影響を与えた。パウロは紀元58年頃、ローマ帝国の首都にいるキリスト者たちに手紙を書き、その中で「上に立つ権威に従う」ように勧めた。世の権威は神によって立てられたものであり、支配者は世の秩序を保つために神から権威を与えられているのだから、「上に立つ権威に従いなさい」。具体的にはローマ帝国とその秩序に従い、納めるべき税は納め、果たすべき義務は果たしなさいと勧めている。この言葉の背景には、当時広がっていた自由に対する過った考え方がある。福音はキリスト者の自由を説いたが、この自由を誤解する人々がいた。「自分たちは自由だ。だからもうこの世の秩序に従う必要はない」。ある人々は国家からの自由を主張して、税や使役の支払を拒否するようになった。パウロは「キリストが与えて下さった自由はそのようなものではない。あなたがたは市民としての義務を果たしなさい」と人々を戒めた。
・初代教会の人々は、パウロの使信を受け入れた。紀元64年、ネロによるキリスト教迫害が始まった時、人々はこの言葉に従い、抵抗することなく殉教して行った。迫害は250年間続いた。しかし、キリスト教はやがてローマ帝国を征服し、ローマの国教となって行く。支配側に立った時、教会はローマ13章の解釈を根本的に変えた。教会はローマ13章を用いて次のように教えた「政府は神により立てられ、全てのキリスト者は自分たちの政府に従うべきであり、国家の秩序を守るためであれば死刑も戦争も許される」と。この考え方がその後も継承され、国家に対する絶対服従を教えるものとしてローマ13章が用いられて行った。
・宗教改革者ルターも国家による秩序維持について従来の考え方を継承した。そのため近代に至っても、ローマ13章は国家に対するキリスト者のあり方の基本テキストとして用いられていく。ローマ13章の解釈が大きく揺らいだのは、1933年にナチスがドイツの政権につき、官憲として服従を要求した時である。多くの教会はルターの立場を継承し、ヒトラー政権を神の権威の基に成立した合法的政権として受け入れていく。その中で、改革派教会は政府が神の委託に正しく応えていない場合、キリスト者は良心を持って抵抗すべきであることを主張し、ナチスとの武力を含めた戦いを始める。
・私たちキリスト者は社会の中で生きる。その時、キリスト者は国家に対してどのようにあるべきか、また国家が戦争に参加するように求めた時、どうすべきかが問われる場合が出てくる。戦前の日本では「天皇とキリストはどちらが偉いか」と問われ、戦争を拒否する者は投獄された。現在のアメリカでは多くのキリスト者がアフガニスタンやイラクで兵士として徴兵され、死んで行く。国家に対してどのように向き合うのかは大事な問題だ。
2.ローマ13:1-7の語るもの
・一体、ローマ13章は国家に対する服従や抵抗を教えているのだろうか。聖書の言葉は、ある言葉だけを取り出した場合、恣意的に読まれることが多い。つまり、自分の思想や価値観の裏付けのために聖書が引用されることが多い。故に聖書は全体の文脈の中で読むべきだ。ローマ書においては12-13章が一つの文章群になっており、パウロは「キリスト者のあるべき生き方」をいろいろな角度から教えている。直前の12章では、パウロは、キリストに召されたものとして、世の人々と平和に暮らしなさいと勧めている「すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(12:18-19)。直後の13章8後半でも、パウロは「人々と争うな」と勧める。「愛は隣人に悪を行いません」(13:10)。
・このような文脈の中で、唐突にこの世の秩序維持のためであれば戦争も含めた悪にも従いなさいという考えは出てこない。パウロは、イエスが言われた従属の教えをここで考えている。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。キリスト者は良心の故に世の秩序に服従する。そのために貢や税や労役も世に支払う。「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(13:7)。同時に神のものは神に納めるべきだ。だから、パウロは言う「世に倣ってはいけない。・・・何が神の御心であり、何が良いことで、神に喜ばれ、また完全であるかをわきまえなさい」(12:2)。ローマ13章を当時の時代背景の中で考えれば、パウロは「ローマ皇帝が信仰を捨てよと命令しても、それを拒否しなさい。しかし報復として殺すということであれば、それは受容しなさい」とローマの信徒に勧めているのだ。
・彼はピリピ教会にも同じ様な使信を送っている。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(ピリピ1:29)。悪には従わないが、秩序には従う。悪に従わないことによって不利益を受けるのであれば、その不利益をキリストのためと思って喜びなさいと言われている。ローマ12:20-21は言う。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。
・このように見てくると、ローマ13章でパウロは政府に対する絶対服従を教え、キリスト者も政府の命じる戦争には市民として参加せよと教えているのではない。聖書は例え、国家によって命じられた戦争にあっても人を殺すことが正当であるとは言わない。また逆に、戦争を起こすような政府は神の委託に反しているから、これに従うなとも言わない。聖書が言うのは、悪の権化と思えるローマ皇帝もあなたの隣人として愛しなさい。当時のローマ皇帝はネロであった。そのネロを隣人として愛しなさい。「愛は隣人に悪を行わない」、悪には善を持って立ち向かえと言う。悪に対して悪を返すな。悪は神が裁いて下さる。その神の裁きに委ねよと彼は言っている。
3.あなたが隣人になりなさい
・今日の招詞にルカ10:36-37を選んだ。有名な「良きサマリヤ人の例え」の一節だ。前にも招詞として選んだことがある。「『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか』。律法の専門家は言った『その人を助けた人です』。そこで、イエスは言われた『行って、あなたも同じようにしなさい』」。
・この言葉は律法学者との問答の中で言われている。律法学者はイエスに問う「何をしたら永遠の命を受け継ぐことが出来るのでしょうか」。イエスは「隣人を自分のように愛しなさい」と答えられた。律法学者は更に問う「私の隣人とは誰ですか」。それに対してイエスは「良きサマリヤ人の例え」を話され、強盗に襲われた旅人を助けたのは、同胞のユダヤ人ではなく、敵として嫌われていたサマリヤ人であったことを述べられ、あなたもこのサマリヤ人のように敵を愛しなさいといわれた。自分の最も嫌いな人、憎む人こそが神があなたに与えた隣人であり、「あなたがその人の隣人になりなさい」と教えられた。
・今日のローマ13章の言葉の文脈で読めば、ローマ皇帝がどのような悪逆な人であっても、例えネロ帝のような人であっても彼を愛し、彼のために祈り、彼を隣人にしなさいということだ。イエスは山上の説教の中で言われた「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」(マタイ 5:46-48)。
・私たちは隣人とは自分を愛してくれる人、自分の兄弟姉妹だと思っている。しかし、聖書が教えるのは、隣人とは自分を憎む人、自分に危害を加える人だ。そういう人とは隣人になれないと私たちは抵抗するが、イエスはその私たちに問われる「徴税人や異邦人でさえ出来る事をして神は喜ばれるのか。あなたの信仰はどこにあるのだ」。私たちの周りには、私たちの悪口を言う人、言われなき攻撃をする人が必ずいる。私たちはその人たちが嫌いだ。しかし、その嫌いな人にためにキリストは死なれた。その嫌いな人を愛することが神を愛することだ。イエスが罪にまみれたあなたのために死んでくれたから、あなたは新しい命をもらったではないか。それなのに何故嫌いな人のために死ねないのか。パウロはあのネロを隣人として愛せと書いたではないか。隣人が私たちに悪を働いても報復するな、裁くのは神であって私たちではない。私たちがするべきは自分を憎む者のために祈ることだ。その祈りを通して、その人は隣人になっていく。神の力を信じ通せ、殺されても信じ通せ、そう命じられている。