江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年8月7日説教(コロサイ書3:18-4:1、積極的従属)

投稿日:2005年8月7日 更新日:

1.コロサイ書における家庭訓

・今日、私たちはパウロがコロサイの教会に送った手紙を読む。コロサイはエペソから200kmの所にある小アジアの教会だ。エペソ滞在中のパウロの働きでエパフロスが信仰に導かれ、彼は故郷のコロサイに戻って開拓伝道を行い、そこに教会が立てられた。しかし、コロサイ教会は時間と共に最初の福音からはなれ、グノーシスと呼ばれる神秘主義信仰の悪弊に陥って行った。教会はカリスマ的指導者の下で天使や諸霊を拝み、幻を見たり、異言を語ったり、いやしを求め始めていた。そのような教会に対して、パウロは地に足をつけて立てと手紙を送る。それがコロサイ書で、今日読むところはそのコロサイ書の中で、家庭についての教えと呼ばれる箇所である。

・ここでは、妻と夫、子と父、奴隷と主人の関係が記されている。具体的には「妻は夫に仕えなさい」、「子は親に従いなさい」、「奴隷は主人に従いなさい」と説かれている。ある人はこの箇所をさして言う「パウロはキリストにあっては男も女もなく、奴隷も自由人もないと教えたのに、ここでは逆のことを教える。パウロでさえ、世の慣習、制度から自由でなかったのか」(ガラテヤ3:28)。別の人は言う「ここでは弱者の従属が説かれている。この従属規定のために、古代・中世は暗黒の時代だった。近代はこの従属から解放され、自由・平等・博愛の理想を求めた所から始まった」。コロサイ3章で説かれている家庭訓は古い教え、家父長的倫理であり、男女の平等・親子の人格的尊重の説かれる現代では聞く価値がないことなのだろうか。共に考えて見たい。

・18−19節では妻たちに対して「夫に仕えるように」命じられている。それは単に「夫に従え」と言われているのではなく「主を信じる者にふさわしく、夫に仕えよ」と言われている。ギリシャ語では「エン・キュリオー=主において」である。キリストに従うように夫に従え、信仰の行為として夫に仕えよと言われている。同じ言葉が夫にも向けられる「夫たちよ、妻を愛しなさい」。古代において「妻は夫に従え」という教えはギリシャにもあった。また「妻を治めよ=支配せよ」との夫への勧告はあった。しかし、夫に対して「妻を愛せよ」という教えはなかった。当時、妻は夫の隷属物であり、愛する存在ではなかった。従って、「妻を愛せよ、つらく当たってはいけない」と夫に呼びかけられていることは革命的な教えであった。

・次に子どもに対して「親に従いなさい」と説かれている。古代において、子が父に従うことは当然であった。しかし、ここでは同時に父に対して「子につらく当たるな」と説かれている。当時の子どもたちは何の権利も持たなかった。その子どもの人格を敬えと言われている。しかも「主に喜ばれる」事として言われている。子が親に従う、親が子を人格として敬うことが信仰の出来事として説かれている。これは今までになかったことだ。

・最後に、奴隷は「主人に従え」と言われている。当時は奴隷制社会だった。パウロは奴隷制を不当なものではなく、当然のものとして受け入れることを求めているのだろうか。そうではないことが4:1を読めばわかる。奴隷が主人に従うことを定めた戒めは多いが、主人に対して「奴隷を正しく、公平に扱うように」求めた文書は聖書以外ない。奴隷は殺そうが、病気で死なせようが、主人の意のままであった。しかし、パウロは主人に言う「あなた方はそうではあってはならない。あなたの奴隷もまた主に愛されているのだから」と求めている。奴隷も主人も共にキリストのものだから、奴隷を痛めつけてはならないと命じられている。当時の世界で、奴隷主に対して、このような戒めを送ったのは、異例なことである。

2.積極的従属

・パウロは何故、子どもや妻に従属を勧めるのか。それは従属する以外に、彼らの生きる道がなかったからだ。子どもは養ってくれる親なしでは生きることは出来なかった。妻の経済的自立のない当時においては、夫に従うしか、妻の生計の方法はなかった。奴隷もまた、主人に養われる以外の生存はなかった。他に選択肢がない状況下であれば、それを神が与えてくださった道として積極的に選び取って行きなさいとここで言われている。

・旧約聖書、特に申命記でよく耳にする言葉は、寄留者、孤児、寡婦である。申命記24:19−20は次のように言う「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。・・・オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい」。この言葉の背景には、寄留者=外国からの一時滞在者、孤児=親を亡くした子、寡婦=夫を亡くした妻の生活がいかに悲惨であったかがある。従う以外に生きる手段が無いのであれば、従いなさい。それも運命として、あきらめて従うのではなく、神から与えられた道として、積極的に従うことを選び取っていきなさいと言われている。

・今日の招詞に〓ペテロ2:18−19を選んだ。次のような言葉だ。「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」。ここでは寛大な主人だけではなく、無慈悲な主人であっても従えと求められている。神がそのようにこの世を作られたのだから仕方がないという諦めではなく、もっと積極的な意味がある。ペテロは続ける「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」(〓ペテロ2:20-24)。キリストは「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました」。

・キリストがののしられてもののしり返さず、苦しめられても報復されなかったように、あなた方も与えられた人生の中で最善を尽くせ、奴隷であることを逃れて新しい身分にあこがれるよりも、神があなたに奴隷の身分を与えて下さったのであれば、奴隷として最善を尽くして生きよとの信仰の選択が迫られている。ペテロは妻にも同じことを言う「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです」(〓ペテロ3:1-2)。自分の夫が未信者であることを歎くより、あなたの信仰に基づいた従属を通して、夫に信仰とは何であるかを示しなさい。神が何故あなたに未信者の夫を与えたのか、それはあなたを通して夫が信仰に入るためであり、そのために最善を尽くせと言われている。

3.私たちの選択

・これは諦めの教えではない。奴隷の身分から解放される機会があればその機会を生かせ、しかし奴隷であることを不当として主人の下から逃走し、一生を逃げ隠れてして送ることが神の御心ではない事を知れと言われる。婦人に対しては、どのような夫であれ従え、しかし夫が死ねば再婚しても良いと言われる。無慈悲な主人、不信仰の夫、かたくなな父、このような現実から目をそむけるな。現実に立ち向かえ、現実を神が与えて下さった導きとして積極的に従って行け。これがキリストが為されたことであり、あなた方が従う道なのだといわれている。

・ここにおいて、私たちの主体的選択による従属の意味がわかってくる。現在の境遇は神が与えてくれたものだ。それに不満を言ったり、一時逃れの行為をしても、そこからは何も生まれない。むしろ、与えてくれた夫、与えてくれた父、与えてくれた主人を敬い、従うことを通して、道が開かれて来るのだ。ここに支配と従属に代わる新しい掟、自ら僕となる聖書の説く従属がある。それは自ら仕えて行くという積極的従属だ。パウロはコロサイの人々に言う「現在の苦しみを忘れるために霊の力を借りたり、神秘を求めても仕方がないのだ。現在の与えられた境遇の中で、何が神の御心であるかを求めていくのが、足が地に付いたキリスト者の生き方ではないか」。

・最後にアメリカの神学者ラインホルド・ニーバーの「平静についての祈り」を聞こう。「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。教会形成も同じだ。人が足りない、お金が足りない、設備が足りないと歎くより、今与えられているもので何が出来るのかを求めよ。不足や困難が与えられているとすれば、それを通して神が私たちをどこへ導こうとされているかを祈り求めよ。そこに道が開かれる。聖書は私たちにそう教える。

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