江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年8月21日説教(1コリント15:35-52、われは身体のよみがえり、とこしえの命を信ず)

投稿日:2005年8月21日 更新日:

1.この世で一番たいせつなもの

・私たちにとってこの世で一番大切なものはなんだろうか。イエスは、それは命であると言われた「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」(ルカ 9:25)。その通りだと思う。だから、私たちは教会に集まり、神の言葉を聞く。しかし、私たちは言葉を信じきることが出来ないから、言葉によって命が与えられない。命が与えられないから、信仰が私たちの生活を揺り動かさない。コリントの人々も同じだった。だからパウロはコリントの人々に手紙を書いた。その手紙の核心部分が今日読む〓コリント15章だ。

・最初に、パウロは「福音とは何か」を説く。福音とは救いの知らせだ。「私の宣べ伝えた言葉を堅く守ればあなたがたは救われる」(15:1-2)。言葉に対する信仰は救いをもたらす。その言葉とは「キリストが私たちの罪のために死なれたこと、キリストが葬られたこと、キリストが復活されたこと、復活のキリストが私に現れられたこと」(15:3-4)だ。キリストが私たちのために死なれた、それは私たちの罪の赦しが宣言されたことだ。死なれたキリストがよみがえられた。もう私たちは死刑囚ではないという知らせだ。キリストの十字架により救いが始まり、キリストの復活により救いが完成する。
・しかし、この福音を信じきれない者がコリント教会の中にいた。「あなたがたの中に死者の復活などないと主張している者がいる」(15:12)とパウロは言う。パウロは続ける「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかった。キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしい。キリストを信じて死んだ人々も滅び、キリストに望みをかけている私たちも愚か者となる」(15:16-19)。復活がなければ、私たちは罪人のままだ。罪の赦しが宣言されても、死刑は免除されなかったことになる。

・しかし、キリストはよみがえられた。ペテロもヤコブも復活のキリストに会った、私も出会った。復活は歴史上の事実であり、私たちはその目撃者だ。神はキリストをよみがえらせることを通して、死ぬべき私たちも生きることが許されていることをお示し下さった。ダマスコ郊外で復活のキリストに出会って、私はそれを知った。だから、私は伝道者にさせられた。何のために伝道するのか、一人でも多くの命が救われるためではないか。もし復活がなければ、私はただの愚か者だ。

・しかし、考えても見よ、復活を信じることの出来ない人生をとパウロは訴える。人が結局は死ぬだけの存在に過ぎないとすれば、現在を楽しむしかない。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」、そのような人生は死刑囚が刑の執行前にご馳走を食べるのと同じだ。「どうせ死ぬのだ」、そのような言葉を聞くために、あなたがたは教会に来たのかとパウロは怒る。

・今の日本人の生活態度がそうだ。出来るだけ、死を考えないように、現在の生を楽しもうと生きている。おいしいものを食べ、楽しく、愉快に人生を暮らすのが、日本人の求める幸福だ。しかし、そんなものは幸せでもなんでもない。死を見つめることを避けているだけの生活であり、仮に死が牙をむいて家族の一員に襲い掛かれば、たちまち崩れる。1985年8月12日に日航機が群馬・御巣鷹山に落ち、520人が死んだ。20年が経ったが、遺族は今でも8月12日に慰霊登山をする。20年たっても死は人々を苦しめている、死の力はどうしようもなく大きい。この死を避けて、見ないようにして生きる生活はまやかしだ。

・今、私たちの生活から死が隠されている。死は病院や老人ホームでこっそりと、取り扱われている。それでも私たちは死を見ないわけには行かない。いつかは自分にも訪れるからだ。死んだ後、私たちはどうなるのか、この大事な問題が生活の中で語られない。私たちは準備なしに死んでいく。これは不幸なことだと思う。

2.肉の体に死んで、霊の体に生きる

・コリントの人々はパウロに反論した「死んだ後のことはわからないではないか」。その疑問に答えたのが、35節以下の今日の聖書個所だ。パウロは種の例えを引く。種は土に蒔かれて形をなくする、一度死ぬ。その死の中から新しい命が、即ち新芽が生まれてくる。種と新芽は違う形をとるが、それは同じ命、同じ種だ。蒔かれた種は「新芽」と言う形でよみがえり、成長して30倍、60倍の実を結ぶ。「一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)不思議を見ながら、死んだ人間が再び生きる不思議を何故信じることが出来ないのか。

・自然界には実に多くの相違した肉があり、身体があることを見よとパウロは言う。朽ちる、卑しい、肉の身体で蒔かれる、それが人間の死だ。その人間が朽ちない、輝かしい、力強いものとしてよみがえる、それが復活だ。そのためには一旦死ななければならない。「肉と血は神の国を受け継ぐことは出来ない」(15:50)のだ。種が一旦死んで新しい芽として芽生えてくるように、肉の身体が死に、霊の身体で生き返る。その時、障害を持つ身体も、年老いた身体も、輝く身体としてよみがえる。その希望を持つことが出来るのだとパウロは言う。

・よみがえりの身体は今の身体とは違うものになるだろう。それにもかかわらず、種と植物が同じ生命であるように、死後の身体も、同じ存在、私は私、あなたはあなたとしてよみがえる。神はキリストをよみがえらせられたように、私たちをも生かして下さる。この希望を信じる時のみ、人は死の恐怖から解放される。だからパウロは言う「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(15:55)。死のとげとは、死に対する恐怖だ。復活の希望は死の力から私たちを解放する力を持つ。

3.あなたは信じるか、信じきるか

・今日の招詞にヨハネ11:25-26を選んだ。次のような言葉だ。「イエスは言われた。『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」。これはラザロが死んだ時、イエスがラザロの姉妹マルタに言われた言葉だ。マルタは「イエスがもっと早く来てくれたら兄弟は死ななくてもすんだのに」とイエスに訴えた。そのマルタにイエスは言われる「あなたの兄弟は復活する」。マルタは聞いたが、信じることが出来ない。

・マルタと同じように、私たちも復活の使信を聞いても、信じきることが出来ない。死んだ人の身体は腐敗し、滅びる。火葬場で見るものは骨と灰だ。その中に命があるとは思えない。それが見える現実であり、その現実を無視して身体のよみがえりを信じることは難しい。ギリシャ人は人が死ぬと肉は滅びるが、魂は天に帰ると信じた。ユダヤ人は人が死ねば魂は陰府に行くと考えた。日本人は死んだ者の魂は何らかの形で存続すると信じている。いずれも霊魂の不滅は信じることが出来ても、身体のよみがえりは信じていない。しかし、そのような観念を打ち破る出来事がこの歴史に起こった、キリストは身体を持って復活されたではないか。その出来事を見よ。

・「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」とイエスは問われた。私たちに出来る答えは、「主よ、われ信ず。信仰なきわれを助けたまえ」(マルコ9:24)と言うだけだ。てんかんに苦しむ子を持つ父親はイエスに対し「もしお出来になるならこの子を癒して下さい」とお願いした。イエスは「出来ればと言うのか、信じる者は何でも出来る」と言われた。それに対して父親は応えた「主よ、われ信ず。信仰なきわれを助けたまえ」。私たちは見ないと信じられない。しかし、それで良いとイエスは言われる。「見ないと信じられませんが、信じたいと願っています」と応えた父親に、イエスは子のてんかんをいやして下さった。「われ信ず」、その告白に対して、神は必要な信仰を与えて下さる。パウロのように「見て信じる」場を与えて下さる。それを求めて待てば良い。

・パウロは15章の終わりで言う「兄弟たち、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(15:58)。私たちの肉体は朽ちる。クリスチャンも、そうでない人も同じく死ぬ。しかし信じる者はよみがえる。復活がないとすれば、私たちの生涯は死で終わる。死で終わるのであれば、怯えて暮らすしかない。復活を信じるかどうかに、私たちの生涯がかかっている。「われは身体のよみがえり、とこしえの生命を信ず」、使徒信条の一節だ。ここに私たちの信仰がかかっている。そして「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない」と約束されている。

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