江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年6月5日説教(フィリピの信徒への手紙2:12-18、善き力にわれ囲まれ)

投稿日:2005年6月5日 更新日:

1.非日常の中で喜ぶ

・先週、私たちは使徒言行録17章から、パウロのアテネ伝道を学んだ。アテネはソクラテスやプラトンの知性を生んだ地であるが、その町は偶像の神々であふれていた。人間にはどうしようもない力を人々が怖れたからだ。雨が降らなければ作物は不作になり、貧しい人たちは餓死する。そうならないように、雨の神を祀る。伝染病が起こると、大勢の人たちが死ぬ。どうして良いかわからないから、祟りが起きないように、神々を拝む。古代世界は迷信にあふれていた。しかし、現代日本でも、人々は偶像を拝む。どうしようも無い力が私たちを脅かすからだ。いつ災いが来るかわからない、わからないから、そうなりませんように神々を拝む。毎年3万人が自殺で死ぬ。未遂を含めると30万人が毎年死のうとするが、その原因はうつ病だ。この「うつ」を私たちは制御できない。古代も現代も、人は未知の世界、非日常の脅威に怯えて暮らす。私たちに出来ることは、「災いが来ませんように」と祈るだけだ。

・しかし、その災いを喜ぶことが出来る人たちがいる。パウロがそうだ。彼は、今、ローマの獄にいる。彼は自分が獄中にあることを喜んでいる。フィリピ教会への手紙で彼は書き送る「兄弟たち、私の身に起こったことが、福音の前進に役立ったと知ってほしい。私が監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、私の捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」(フィリピ1:12-14)。逮捕・入獄という非日常により、生活の安定が崩されたのに、何故喜ぶことが出来るのか、それが今日学びたい事柄だ。

・フィリピの教会はパウロの伝道で立てられた。教会は巡回伝道を続けるパウロのために祈り、支援を続けた。今回もパウロが捕らえられたと聞き、エパフロディトに慰問の品を持たせて、ローマに派遣した。パウロは教会の支援に感謝すると共に、いま自分が獄にあってフィリピの人々のために働けないことを、心残りに思っている。しかし、パウロの心は彼らと共にあり、パウロがいない今も主に従順であるように祈る。「愛する人たち、いつも従順であったように、私が共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいなさい」(2:12)、パウロは続ける「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい・・・不平や理屈を述べることを止めなさい」。神の前に恐れとおののく時、不平や理屈は出てこない。「不平と理屈」、口語訳では「つぶやきと疑い」と訳されており、これが原意に近い。出エジプトの民は、エジプトの奴隷から救い出された時、喜び踊った。彼らは神に導かれて、約束の地を目指して、荒野を進んだ。しかし、まもなくつぶやき始める。荒野には水はなく、食糧は乏しい。「エジプトを出るのではなかった」。このつぶやきこそ、救いを約束する神に対する不服従だ。私たちも神に出会い、信じる者とされたが、救いはまだ途上にあり、完成していない。約束されたものを手中に出来ない緊張がつぶやきを生む。つぶやいた者は疑う「神は本当におられるのか。おられるなら、もっと祝福を下さるはずだ」。このつぶやきと疑いが私たちを神から離れた「傷のあるもの」とする。

・つぶやきや疑いを捨てなさい、そうすれば「とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(2:15-16)。この言葉は申命記32:5を背景にしている。モーセは言った「不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ、その傷ゆえに、もはや神の子らではない」。非の打ち所が無い=傷の無い、の意味だ。傷のある動物は祭壇への献げ物としてふさわしくない。出エジプトの民は約束の地に入るや否や主を忘れ、偶像の神々を拝み始め、傷あるものになった。あなたがたはそうであってはならない。このよこしまで曲がった時代に押し流されないで、傷のないもののままでいなさい。「あなたがたの体を、聖い、生きた供え物として捧げなさい。それが真の礼拝です」(ローマ12:1)とパウロは言う。

・パウロは獄中にあり、死の脅威の中にある。人間としては、釈放されて再びピリピを訪れることを願っている。しかし、それは適わないかもしれない。彼は死を覚悟し始めている。それが神の御心であれば受け容れていこうと思っている。民の罪を購う「あがないの日」には、犠牲の動物の血が祭壇に注がれ、祭壇を清める。パウロが死に、その血がフィリピ教会の祭壇を清めるのであれば、あなたがたのために喜んで死のうとパウロは言う。「この喜びをあなた方も共にしてください、私と共に、神の福音のために、血が流されることを喜んでください」。フィリピ書はパウロの遺書なのだ。パウロがこの手紙を書いたのは63年頃、彼は翌64年にローマで殉教したと言われている。

2.善き力にわれ囲まれ

・今日の招詞にフィリピ1:29−30を選んだ。次のような言葉だ「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、私の戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです」。

・パウロはローマの獄中にいる。何故獄につながれたのか、キリストの福音を伝えたからだ。福音とは喜びの訪れではないか、それが何故迫害を受けるのか。イエスは安息日に病人に対する治療を行ってはいけないという律法を知りながら、目の前にいる病人を憐れみ、いやされた。らい病人には触れていけないという掟があっても愛の故にそれを無視された。だから律法を重んじるユダヤ人たちはイエスを捕らえた。ローマ帝国は皇帝を神として拝めと求め、パウロはこれを拒否した。ローマはパウロを捕らえた。キリストに従うとする時、世から迫害を受けることはある。迫害を受けた時、私たちは日常の平和な生活から、非日常の苦難の中に入る。しかし、その苦難が神ゆえのものであることを知る時はもう怖れない。神が共にいてくださる、善き力に囲まれていることを知る時、牢獄もまた喜びの場になる。「キリストのために私は苦しんでいるがそれを恵みとして喜んでいる。だから、あなた方も私を通して、同じ戦いを戦って下さい」とパウロはフィリピの人々に書き送る。

・今日、私たちは応答讃美として讃美歌73番を共に歌う。デートリッヒ・ボンヘッファーが1944年に書いた「善き力にわれ囲まれ」という歌だ。ボンヘッファーはナチス時代を生きたドイツの牧師だ。1933年、ナチスが政権を取り、ユダヤ人迫害を始めると彼はそれに抗議する。大半の教会はナチスの政策に従ってドイツ帝国教会として編成されるが、ボンヘッファーは告白教会を組織し、「不正な指導者には従うな」と呼びかける。彼は政権ににらまれ、心配した友人たちはニューヨークのユニオン神学校の職をボンヘッファーに提供し、1939年彼はアメリカに渡る。しかし、1ヶ月間いただけですぐドイツに帰る。他の人々が犠牲になって苦しんでいる時、自分だけが平和な生活を送ることは出来ない、苦しみを共にしなければ、もう祖国の人に福音を語れないと思ったからだ。

・彼はドイツに戻り、ヒットラー暗殺計画に加わる。彼は言う「車に轢かれた犠牲者の看護をすることは大事な務めだ。しかし、車が暴走を続け、新しい被害者を生み続けているとすれば、車自体を止める努力をすべきだ」。暴走を続けるナチスを止めるには、その頭であるヒットラーを倒すしかない。そう考えたボンヘッファーは国防軍情報部に入り、計画を推し進めるが、発覚し、1943年4月に捕らえられる。1年半後の1944年12月に彼は獄中から家族にあてて手紙を書くが、そこに同封されていたのが、讃美歌の元になったこの詩だ。

・1番は次のような詩だ。「善き力にわれ囲まれ、守り慰められて、世の悩み共に分かち、新しい日を望もう。過ぎた日々の悩み重く、なおのしかかる時も、さわぎ立つ心しずめ、御旨に従い行く。善き力に守られつつ、来るべき時を待とう。夜も朝もいつも神は、われらと共にいます」。1年半も彼は投獄されている。その中で、彼は家族や友人が彼のために祈りを続けてくれる事を感謝し、それを与えてくれた神の守りを「善き力に囲まれ」と歌う。ナチスに対する反逆罪で捕らえられた彼は死刑になることを予感している。また牧師として、暗殺行為に関ったことが良かったのか、迷いはある。その迷いの中で「御旨に従い行く」と歌う。

・2番が続く「たとい主から差し出される杯は苦くとも、恐れず感謝をこめて、愛する手から受けよう。輝かせよ、主のともし火、われらの闇の中に。望みを主の手にゆだね、来るべき朝を待とう。善き力に守られつつ、来るべき時を待とう。夜も朝もいつも神は、われらと共にいます」。主から差し出される杯は「死」かも知れない。死ぬのは怖い。人としては、釈放されてまた家族や友人と楽しい日々を過ごしたいと願う。しかし、それは適わないかもしれない。その時は主から差し出される杯をいただこう。このよこしまな、曲がった時代の中にも、神の光は輝いている。神がわれらと共にいませば、それでいいではないか。

・いつ処刑されるかわからない不安の中にありながら、主にある平安を彼は喜ぶ。4ヵ月後の1945年4月に処刑されて、彼は死ぬ。39歳であった。キリストを信じる者にも死は恐怖だ。しかし、その恐怖は神が取り去って下さる。信仰のある者と無い者の違いは、いざと言う時に絶望に押しひさがれるか、それとも神による救いを見出すかである。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、私の戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです」。パウロのこの言葉をボンヘッフアーは自分に与えられた言葉として聞いたであろう。

主のよき力に守られて(新生讃美歌73番原詩)

主のよき力に、確かに、静かに、取り囲まれ、 不思議にも守られ、慰められて、 私はここでの日々を君たちと共に生き、 君たちと共に新年を迎えようとしています。過ぎ去ろうとしている時は、私たちの心をなおも悩まし、悪夢のような日々の重荷は、私たちをなおも圧し続けています。 ああ、主よ、どうかこのおびえおののく魂に、あなたが備えている救いを与えてください。あなたが、もし、私たちに、苦い杯を、苦汁にあふれる杯を、なみなみとついで、差し出すなら、私たちはそれを恐れず、感謝して、いつくしみと愛に満ちたあなたの手から受け取りましょう。しかし、もし、あなたが、私たちにもう一度喜びを、この世と、まぶしいばかりに輝く太陽に対する喜びを与えてくださるなら、私たちは過ぎ去った日々のことをすべて思い起こしましょう。私たちのこの世の生のすべては、あなたのものです。あなたがこの闇の中にもたらしたろうそくを、 どうか今こそ暖かく、明るく燃やしてください。そしてできるなら、引き裂かれた私たちをもう一度、結び合わせてください。 あなたの光が夜の闇の中でこそ輝くことを、私たちは知っています。深い静けさが私たちを包んでいる今、この時に、私たちに、聞かせてください。私たちのまわりに広がる目に見えない世界のあふれるばかりの音の響きを、あなたのすべての子供たちが高らかにうたう賛美の歌声を。 主のよき力に、不思議にも守られて、私たちは、来るべきものを安らかに待ち受けます。神は、朝に、夕に、私たちのそばにいるでしょう。そして、私たちが迎える新しい日々にも、神は必ず、私たちと共にいるでしょう。

ボンヘッファー著、村椿嘉信訳「主のよき力に守られて」新教出版社

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