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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年5月8日説教(ルカ24:44~53、昇天を喜ぶ信仰)

投稿日:2005年5月8日 更新日:

1.喜びを持ってイエスの昇天を見送る

・イエスは復活後40日間弟子たちと共にいた後、昇天された。イースターから40日後、今年は5月5日(木)が昇天記念日であった。昇天の時、イエスは弟子たちに言われた「あなたたちは私の証人になる。父から聖霊を受けるまで、エルサレムに留まっていなさい」(ルカ24:49)。それから10日後、五旬祭(ペンテコステ)の時、弟子たちに聖霊が下り、弟子たちはキリストの証人となっていく。教会では、クリスマスからペンテコステまでの半年間(12月~5月)を「イエスの時」として、福音書からイエスの言葉を聞いていく。そして、ペンテコステからクリスマスまでの残り半年(6月~11月)を「弟子たちの時」として、使徒行伝や手紙から弟子たちの証言を聞いて行く。教会歴では、今日はイエスの時の終わり、弟子たちの時の始まりとして、イエスの昇天の記事から、御言葉をいただく。

・イエスは死んで三日目に弟子たちに現れた。その時「弟子たちは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(ルカ24:36-37)。復活のイエスとの最初の出会いは喜びではなく、恐れだったとルカは描く。復活は弟子達にさえ、信じがたい出来事だった。イエスは恐れ惑う弟子たちに、自らの手足を示され、「私だ」と言われた。そして、40日間彼らと共にいて、弟子たちの心を解きほぐしてくださった。ルカ福音書の続編である使徒行伝は「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」と記す。

・別れの時が来た。イエスは弟子たちと共に、ベタニアまで行かれ、弟子たちを祝福され、天に昇って行かれた。イエスが昇天された後、弟子たちは「喜んでエルサレムに帰り、神を讃美した」。弟子たちは喜んでイエスを天に送り出した。今日、私たちはそのことを覚えたい。イエスの十字架であれほど悲しみ、復活のイエスに出会っても喜びが無かった弟子たちが、今は喜びを持ってイエスを天に送った。40日間の体験が彼らを変えた。イエスの復活と昇天を通して、彼らは、死ぬことは天に帰ることであり、恐れる必要は無いことを知ったからだ。

・プロテスタントでは人が死んだ時、「昇天」というが、カトリックでは、人が死ぬことを「帰天」、天に帰るという。私たちは、元いた場所に帰る、それが死という理解だ。弟子たちは、イエスが天の父の家に戻られることを喜んだ。死とは、昇天、あるいは帰天の出来事であり、あるべき場所に帰る、喜ばしい出来事なのだ。それがわかったから、弟子たちは喜んでイエスの昇天を見守った。このことは、私たちが死をどのように受け入れるべきかを教える。

2.死の受容が出来ない現代

・尼崎の列車事故から10日以上が経ち、報道の焦点は事故原因の追究から、亡くなった方への補償の問題に移ってきた。多くの遺族がテレビに登場し、近親者をなくした無念と悲しみを語っているが、聞きながら、キュブラー・ロス「死ぬ瞬間」という書物を思い出した。著者はアメリカの精神科医であるが、末期患者200人を臨床インタビューし、死を告げられた者が何を考え、どう行動するかを観察し、発表した。その体験を通して、彼女は人が死を告げられた、あるいは死が近いことを知った時、否認→怒り→取引→抑鬱→受容という五つの段階を経ることに気がついた。

・死を告げられた人の最初の反応は否認である。「私が癌になって死ぬわけは無い。こんなに健康なのに、何かの間違いだ」と死の可能性を否定する。しかし、それが否定できない事実とわかり始めた時、私たちは怒る「何故、私なのか。私には、まだ幼い子供たちがいる、今死ぬわけには行かない」。その次が取引だ。「神様、生かしてください。子供がいるのです、生かしてくれたら、何でもします」と訴える。最後の希望も断たれると、人は抑鬱になる。「何故、こんなひどい目に合わなければいけないのか。これからどうしたら良いのか」。最後が死の受容である「人間はいつか死ぬ。私が死ぬのも仕方がないことだ」。この受容の後に希望があれば、「死んで神のもとに帰る」という希望があれば、人は安心して死んでいける。しかし、現代の合理主義、科学万能主義はこの希望、あるいは信仰を破壊してしまった。そのために、死が絶望的なものとして私たちを苦しめるとロスは言う。死の受容が出来なくなっているのだ。

・今回の鉄道事故に対する、異常なまでの、悲しみや怒りの表出は、死の先にあるものを信じられない現代人の問題が背景に有るように思う。かって、死は身近であった。兄弟のうちの何人かは大人になる前に死んだし、30台、40台で死ぬ人も多かった。しかし、医学の進歩により、若年死は減り、老人が死ぬ時も病院に搬送され、見えないところで死んで行く。日常であった死が非日常となり、いつの間にか死は克服されたと人々は思っていた。それが、今目の前に、自分の親しい人が、無残にも死んでいくというむき出しの形で死が私たちを襲った。死が当然の出来事ではなく、外部から不当に加えられた邪悪な力によるものだとの怒りがあり、その怒りが、今回の事故においては、加害者であるJR西日本に集中的に向けられ、彼らの行為の全てが許されないとして、JRパッシングが始まっている。持って行き場の無い嘆き、怒り、受容できない死が私たちを揺さぶっている。死を受容できない、あるいは死を否認する社会の問題性が、今回の事故後の反応に色濃く出ているように思える。

3.死が終わりではない

・今日の招詞に〓テサロニケ4:13−14を選んだ。次のような言葉だ「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」。

・聖書では人の死は当然の出来事とされる。「人は塵だから、塵に帰る」(創世記3:19)。神に生かされている時間が終われば、人は死んでいく。そこに何の疑いも無い。モーセの死を、申命記は短く述べる「主の僕モーセは、主の命令によってモアブで死んだ」(申命記34:5)。ここではモーセの死に方について何の関心も示されず、ただ彼の死が「神の出来事」であるとするだけだ。新約聖書においては、死は眠る(ギリシャ語=コイモーマイ)ことだと記される。パウロはテサロニケ教会の人々に書き送った「人が死ぬとは眠ることであり、やがて目覚める時が来る。主イエスが死んで復活されたように、私たちが死ぬことも一時的に眠ることであり、終末の時に眠りから覚まされ、天に帰っていくのだ」と。

・聖書は人がどのような死に方をしようと、安楽に息を引き取ろうと、苦しんで死のうと、何の準備もなく事故や殺人で突然の無惨な死を迎えようと、その人の救いは死の姿や死に方とは無関係であると言う。死はあくまでも「神の出来事」であり、その生の完成は神の未来に委ねられており、人はそれを待ち望みつつ、生かされている現在を生きれば良いと伝える。死は終わりではなく、未来に対して開かれており、その未来をつかさどる方は、キリストを復活させて下さった方、私たちはその方を父と呼ぶことが許されているのだから、死もまたその方に委ねようではないかとパウロは述べる。

・死の問題は、いかに死ぬかではなく、いかに死を委ねるか、あるいは死を受容するかの問題だ。何故ならば、死は不可避だからだ。そして信仰を失った現代人は、この死の委ね、死の受容が出来ないから、死の力に圧倒される。私たちはイエスが復活されたこと、イエスの昇天を弟子たちが喜んで見送ったこと、私たちは自分や近親者の死を「天に帰る」事として受入れることを、世の人々に伝える責務がある。しかし、どのように伝えるかは難しい問題だ。復活や昇天を説いても、人々は耳を貸さないだろう。今、「千の風」という作者不詳の死が多くの人に受け容れられ、慰めになっているという。「千の風」は次のような歌だ。

「私の墓前で泣くのは、やめてください。私はそこにはいません。眠ってなんかいません。私は千の風となって大空を駆けています。私はダイヤモンドのきらめきとなって雪に舞っています。私は陽の光になって熟した穀物に降り注いでいます。私は優しい秋の雨となっているのです。・・・だから、どうか私の墓前で泣くのは、やめてください。私はそこにいません。私は死んでいないのです。新しく生まれたのですから」。

・作者がクリスチャンであるか知らない。しかし、この詩には、「死が終わりではない。死の先に開かれた未来がある。だから悲しまないで下さい」という聖書のメッセージが込められている。死という現実を見つめ、それを受け容れる。そして、死が終わりではない、死は未来に対して開かれているという希望を持つ。私たちが死ぬことは、無になることではなく、本来の場である天に帰ることだと聖書は語ることを伝える。私たちはこのメッセージを、死の力に負けそうになっている世の人々に伝えたいと祈る。

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