江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年5月29日説教(使徒言行録17:22-34、知られざる神々ではなく)

投稿日:2005年5月29日 更新日:

1.アテネにて

・パウロは今アテネにいる。アテネは哲学の発祥の地、ソクラテスやプラトンを生んだ知性の町だ。同時に、その町は偶像のあふれた迷信の町でもあった。町中に、ゼウスやアポロの神々の像があふれていた。偶像を人の造ったものと考えるパウロにとって、それは見過ごすことの出来ない光景だった。アテネの町にはユダヤ人もおり、ユダヤ教の会堂(シナゴーク)もあった。パウロは安息日には会堂に行ってユダヤ人たちにキリストの福音を伝え、週日は広場(アゴラ)に行き、ギリシャ人に福音を伝えた。パウロの話はギリシャ人には「おしゃべり」としか聞こえなかったが、彼らはその熱心さに圧倒され、話をもっと詳しく聞こうということになり、パウロをアレオパゴスに連れて行った。アレオパゴスはアレスの丘という意味で、丘の名前であるが、そこには評議所が置かれており、討論の場としても有名だった。

・そのアレオパゴスでパウロは人々を前に、語り始めた。ここでのパウロの説教は「知られざる神々への説教」と呼ばれている。何故なら、アテネには「知られざる神々へ」と名づけられた偶像が数多くあったからだ。アテネの人々は多くの偶像を祀っていた。しかし、祀りそこなって祟りを及ぼす神がいると困るから「知られざる神々」まで祀っていた。日本でも不遇の内に死んだ人々の怨霊を鎮めるために、多くの神社が造られている。平将門を祀った社、菅原道真を祀った天満宮、いずれも祟りをなだめるために造られた。日本には8万を越す神社があるが、どこにどのような神が祀られているかを知らずに、私たちは拝む。神田明神が平将門を祀っていると知らない人も多いだろう。正月になると、8千万人を超える人が神社に初詣に行く。一番多いのは明治神宮であるが、そこは明治天皇を祀る。明治天皇にお参りするとどのようなご利益があるかも知らずに、私たちは明治神宮に行く。日本人の信仰の形はアテネとそっくりだ。私たちも「知られざる神々」を拝んでいる。

・パウロは「あなた方は誰を拝むかを知らずに拝んでいる。あなた方が拝んでいる神がどなたなのかを知らせましょう」と語り始めた。天地万物が神によって創造された事、その神は人間が造った神殿などには住まわれない事、神が人を造られた故に人は本能的に神を求める存在である事、しかし暗闇の中で神を捜し求めても神は探しえない事、等を説いた。アテネの人々は、パウロの話しを熱心に聴いていた。彼らも共感する部分が多かったからだ。パウロは続けて言う「神は人が悔い改めて帰ってくることを望んでおられる。そのために、イエスを地上に遣わされ、彼を死からよみがえらせられた。この事を通して、人が神に立ち返る道が開かれた」。

・パウロの話を熱心に聞いていた人たちは、話がイエスの十字架と復活になり始めると、ある者はあざ笑い、別の者は「その話はいずれまた聞かせてもらおう」と言った。死人がよみがえった、パウロの宣教は知性を誇るギリシャ人には愚かな言葉と響き、彼らはそれ以上、話を聞こうとはしなかった。パウロの宣教はアテネの人々には受け容れられなかった。

2.人は何故偶像を求めるのか

・アテネは「人の数より偶像の数が多い」といわれたほど、偶像に満ちていた。日本でも八百万と呼ばれるほど、多くの神々が祀られている。それは、人間が欲する存在を神とするからだ。受験競争が激しくなると学問の神様が生まれる。交通事故が多くなると交通安全の神、商人には商売繁盛の神、子を亡くした人は水子地蔵。更に秀吉や家康のような成功者も神となる。自分もあやかりたいからだ。天皇は神になり、乃木将軍や東郷元帥のような軍人も神になる。人は自分たちの願いを託して神を造り、また祟りを恐れて「知られざる神々の像」まで作る。現代人は神からは離れたが、不安からは離れることが出来ない。だから、正月には宮参りをし、家を建てる時には地鎮祭を行い、悪いことが続くと厄払いをしてもらう。それは迷信と言うよりも、自分を超えた者への怖れの感情だ。古代最高の知性が集まったアテネの町が偶像礼拝の町であったように、科学技術の進んだ現代日本でも、神社参拝は続く。自分を超えた、人間にはどうしようも無い世界があることを、本能的に知っており、怖れているからだ。偶像崇拝は人間の不安の象徴だ。

・107人が亡くなった福知山線の鉄道事故から1ヶ月が経った。事故に遭遇して助かった人々も、徐々にその体験を語り始めている。彼らが共通に語るのは「非日常の怖さ」だ。電車の一両目、二両目の被害が大きかったが、同じ車両に乗っていて助かった人たちもいた。隣に座っていた人は死に、自分は助かった。何故だろう、何が運命を分けたのだろう。何かはわからないが、何か大きなものを、自分を越える存在を人々は感じている。助かった多くの人は言う「人生が一変するような出来事に遭遇した。もう前のようには生きることが出来ない」。

・この非日常を私たちも体験する。非日常、人間の支配の及ばない所、その代表が死だ。福知山線の事故に遭遇した人はそれをいち早く体験した。私たちも遅かれ早かれ、体験する。パウロの話を聞いた人々は「それについてはいずれまた聞こう」といってパウロから離れていった。「いずれまた」の日は来ない。今日、話を聞いて受け容れるか、あるいは拒絶するかのどちらかだ。復活を信じないのは自由だ。愚かな話と否認しても良い。しかし、否認しても、そこからは何も生まれない。しかし、復活の意味を求め始めた時、死とは何か、死からどのようにすれば解放されるのかを考え始めた時、そこに何かが生まれる。多くの人はパウロから離れていったが、少数の人はパウロのもとに残った。「彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた」(使徒行伝17:34)。

3.信じる者は死なない

・今日の招詞にヨハネ11:25−26を選んだ。次のような言葉だ。「イエスは言われた『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」

・イエスが、ラザロの死を悲しむマルタに言われた言葉だ。イエスがベタニアにつかれた時、ラザロは死んで4日経っていた。マルタは「あなたがもっと早く来てくれれば、ラザロは死ななかったでしょうに」と恨み言を言った。それに対してイエスは言われた「あなたの兄弟は復活する」。しかし、マルタには信じられない。イエスは繰り返し言われる。「この病は死に至るものではない、神には出来ないことはない。このことを信じるか」。ラザロは死の床から起き上がった。

・真理には客観的真理と実存的真理がある。客観的真理とは誰にでも理解しうる真理、科学的・実証的真理だ。地球は丸い、人間は死ぬ、これらは誰にも異論はない、客観的真理だ。それに対して、実存的真理とは主観的な真理、例えばベートーベンは天才だと言う時、ある人はそれを否認し、別の人はそれを承認する。承認した人にとってそれは真理となる。しかし、承認しても実証することは出来ない。それが実存的真理、自分で選び取る真理だ。神がおられる、神が私たちを創造された、神が私たちを生かしておられる、これらの出来事は実存的真理に属する。私たちが信じた時、それは真理となる。故に「あなたは信じるか」と問われるのだ。信じなくとも良い。とりあえずは困らない。しかし、信じた時、人生の意味が変わってくる。

・この実存的真理をあざ笑い、「いずれまた聞かせてもらおう」と言う時、そこからは何も生まれない。生まれないどころか、偶像の神々にすがって生きる生き方しか出来ない。それは非日常を怖れて暮らす日々だ。非日常は日常と隣り合わせにある。歳をとる、日常の現象だ。しかし、加齢に痴呆や寝たきりが重なると、本人も家族も非日常に巻き込まれる。だから「ぽっくり寺」信仰が生まれる。結婚する、子どもが生まれる。もし、子どもが重い障害を持って生まれた時、日常がたちまち非日常になる。三宅島で日常の生活を送っていた人も、火山の噴火により、非日常に巻き込まれ、日常の平和を失った。東京で地震が起きれば,あちこちで非日常が生じるだろう。非日常は不可避であり、私たちの人生は、非日常を怖れて偶像を拝むか、神を信じるかのどちらか、なのだ。「災いが来ませんように」と祈る事しかできない人生だ。

・イエスは言われた「生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない」。イエスは復活された。それは私たちが怖れる非日常を破る出来事だ。イエスを通して、私たちは非日常の恐怖から解放される。災いがきてもそれを受け容れることが出来る。「知性を誇るアテネは偶像の町でもあった。知性と恐怖は共存する。人の知恵では人生は乗り切れない」。このことを素直に認め、神の前に悔い改めよと招かれている。

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