江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年5月22日説教(エペソ1:3-14、聖別された者として生きる)

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1.聖別された者としての私たち

・先週、私たちはペンテコステを祝った。その日にペテロは人々に「あなた方はイエスを十字架につけて殺したが、神はそのイエスを復活させられ、イエスこそ神の子であることを示された。私たちはその復活をこの目で見た」と説教した。ペテロの説教を通して、人々は自分たちが神の子を十字架につけた事を知った。「私たちはどうしたら良いですか」と聞く人々に、ペテロは答えた。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。その日に3000人がキリストの名によってバプテスマを受け、ここに教会が生まれた。

・エルサレムで生まれた教会は使徒たちの伝道を通して、ローマ各地に広がり、小アジアにも教会が立てられていった。それがエペソやコロサイの教会であるが、時間の経過と共に、この世的な教えが教会にはびこり、教会が福音から離れ始めた。パウロは、ローマの獄中にいて、諸教会を訪問することは出来ない。そのため、パウロは獄中から諸教会に手紙を書いた。それがエペソ書、コロサイ書、ピリピ書等の獄中書簡と呼ばれる手紙である。その中でエペソ書は「昇天の手紙」と言われている。天上のことに思いを馳せて、地のことを見つめているからだ。その手紙を、今、私たちが読んでいる。

・パウロは、エペソにいる兄弟たちを「聖なる者たち=聖徒」と呼ぶ。それはエペソの兄弟たちが霊的に優れているとか、人格や行いが高潔であるとか言う意味ではない。神によって選び分かたれ、聖別された故に、聖徒と呼ばれる。私たちもそうだ。私たちもキリストの名によってバプテスマを受けた。その時、私たちも聖なる者、神から選び分かたれた者にさせられている。私たちは聖別されている存在なのだ。その私たちがこの地上でどのように生きるべきかをパウロは書き送る。

・パウロは驚くべきことを言う「天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エペソ1:4)。天地創造の前から、生れる前から、私たちは神に選び出され、子とさせられたと言うのだ。世の多くの人がキリストを信じることが出来ない時、私たちが信じる者とされた。これは、神の選びが私たちにあるという大変な出来事なのだと言う。

・何故、神は私たちを選ばれたのか、それは「御自分の前で聖なる者、汚れのない者」にする、すなわち、私たちをご自身の器として用い、私たちを通して、この地上の人々全てを救おうとされるためだ。そのために、私たちがまず起こされた。パウロは続ける「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(1:10)。私たちは自分たちの救いだけでなく、他の人たちの救いにも責任を持つ者とされた。神の業を共に担う者とされた。だから聖徒なのだ。

2.和解の福音を与えられた私たち

・以前の私たちはどうであったか。パウロは述べる「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。・・・そして肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」(2:1-3)。

・人間の全ての不幸は神から離れていることにある。神から離れた時、私たちは自己中心に生きる。その時、自分になく他者が持っているものを私たちは妬み、それを自分のものにしようとして他者と争う。また自分が持っているものはこれを離そうとしない。欲望が妬みを招き、妬みが争いを招き、争いが人を不幸にする。私たちは、かって霊的には死んでいた。この私たちのために、神はキリストを立て、和解の道を開いて下さった。キリストの死を通して、私たちの罪が十字架に葬りさられ、私たちは神と和解した。パウロは言う「私たちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(1:7)。

・神と和解した私たちは、自己中心の思いから解放された。他人の持っているものを喜び、自分の持っているものを与えることが出来る存在になった。ここにおいて、人との関係も争いから和解へと変わった。キリストは私たちに、神を「父」と呼ぶことを許してくださった。私たちは神の子となり、「約束されたものの相続者」(1:11)とせられた。そのしるしとして、私たちに聖霊が与えられた。パウロは言う「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、私たちは贖われて神のものとなりました」(1:13-14)。私たちは聖霊を受けた。そことは、私たちの救いは既に神の契約書に記され、保証金も入れられているということだとパウロは言う。だから、自分の救いに悩むことなく、本来の仕事、まだ福音を知らない人に福音を伝える仕事に専念しなさいと言われている。

3.私たちの為すべきこと

・私たちの為すべきことは「御心が天になるごとく、地にもなりますように」と祈り、そのために働くことだ。今日、私たちは招詞としてマタイ26:10-13を選んだ。次のような言葉だ。「イエスはこれを知って言われた。『なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。この人は私の体に香油を注いで、私を葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう』」

・イエスがベタニヤで食事の席についておられた時、一人の婦人が、香油の入った石膏のつぼを持って来て、イエスの頭に香油を注ぎかけた。香油は、貴重であり、通常は数滴を頭に振りかけるのに、婦人は香油の入った石膏のつぼを壊して、全部をイエスに注いだ。その香油は300デナリもした。今日で言えば数百万円の値段になる。弟子たちはそれを見て、一斉に女を非難した「何故、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」。弟子たちは自分の持ち物を売って貧しい人たちに施したわけではない。自分たちはそういうことをしないのに、この婦人の行為を非難する。ここの弟子たちはまだ救いの中にいない。不寛容な、不機嫌な弟子たちがいる。それに対してイエスが言われたのが、今日の招詞だ。「この婦人は、感謝の思いを込めて、私に香油を注いでくれた。婦人は持っているものをすべて、惜しげもなく捧げてくれた。」。私たちの心からの捧げものが、例え、人々の目に、無駄なような、あるいは非常識のように思えても、イエスは私たちの思いを知り、それを受け容れてくださることをこの話は示す。

・私たちの社会は、この弟子たちのように不寛容だ。JR西日本が鉄道事故を起こした当日、JRの社員がボウリング場に出かけたことが、天下の大罪を犯したように報じられた。107人も死んだ大事故を起こした会社の人が、事故当日ボウリングをするのはけしからんという意見だ。しかし、彼らのボウリングは前から予定され、休暇も取っていた。休暇を取ってボウリングをしていた社員がなぜ叩かれるのか。JRの人はすべて悪いと断罪されているようだ。同じような出来事は三菱自動車が部品不良を隠蔽して事故を告発された時にもあった。三菱自動車の人はすべてモラルがないとでも言うように、世間は叩いた。過失を犯した人を赦さない社会だ。

・2004年4月にイラクで拘束され、解放されて日本に帰ってきた、高遠菜穂子さんもまた、自己責任が足りないと叩かれた人だ。彼女の書いた「戦争と平和」と言う本を読んだ。何故、イラクに行ったのか、そこで何が起きたかを書いた本だ。この本の書評がインターネット上にあったので、読んでみて驚いた。そこには高遠さんを非難する、悪意に満ちた文章が多くあった。「誰も頼んでいないのに勝手に危険な地に足を踏み入れ、国民全体に迷惑をかけた。それなのに謝罪しない」、「世界中でテロや犯罪が起きているのに、何故イラクなのか。アフリカやスマトラの人たちはどうでも良いのか」、等々。高遠さんは自分に出来ることは何かと考え、イラクで路上生活する子供たちのための支援物資を運ぶために、イラク入りをした。彼女は自分に出来る献げ物をしたのに、捧げ方が悪いと非難された。イエスに香油を注いだ婦人を批判する弟子たちと同じだ。このような悪意に満ちた社会に対して、私たちはキリストの和解の福音を述べ伝えていく。困難な仕事だ。

・この社会は、パウロが言うように「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、不従順な者たちに今も働く霊」(エペソ2:2)の支配下にある。だから、私たちは「信仰を盾とし、救いを兜としてかぶり、御言葉と言う霊の剣を持って」(同6:16)戦う。その戦いはペンテコステの日のペテロの戦いのように、最後には私たちの勝利になる。何故ならば、神は私たちと共におられるからだ。

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