1.語り始めた教会
・今日、私たちはペンテコステを祝うために集まった。ペンテコステは、クリスマス・イースターと並ぶ教会の大事な記念日だ。五旬祭(過越祭りから50日目=ペンテコステ)の日に、弟子たちに聖霊が下り、それまで臆病だった弟子たちが雄弁に語り始め、聴いた人々の間に回心が起きた。ペンテコステはそれまでイエスの言葉を聞くだけだった弟子たちが、自ら語る者となり、その結果、信じる者が起こされ、教会が生まれた記念の日だ。今日は、使徒行伝2章を通して、このペンテコステの出来事が私たちにとってどういう意味を持つのかを学びたい。
・イエスは復活後40日間、弟子たちと共にいてくださった。その後昇天されたが、その時「聖霊が与えられるまで、エルサレムで待ちなさい」と弟子たちに言われた(ルカ24:49)。弟子たちはイエスの言葉に従い、エルサレムに戻り、集まり、祈って、待った。10日後、五旬祭の日に不思議な出来事が起きた。一同が集まっていた時、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒2:2-3)。
・現代の私たちには理解が難しい様式でルカはペンテコステの出来事を伝える。しかし、物語を原語であるギリシャ語を通して読む時、その意味がおぼろげに見えてくる。風はギリシャ語でプノエ、霊はプニュマで、共にプネオー(吹く)と言う言葉を語源とする。ギリシャ語では霊は風として表現される。また、ヘブル語では霊(ルーアハ)は息(ルーアハ)と同じであり、神の霊は神の息吹として現される。風は見ることは出来ないが、木の葉の揺れや音により、その存在を感じることが出来る。また私たちの息も見えないが確かに存在する。そのように、聖霊=神の息吹も見えないが、確かに弟子たちの上に降った。そのことを、ルカは「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえた」と表現している。
・その神の息吹は、炎のような舌の形で弟子たちに降った。炎は神の臨在を示し、舌(グロッサイ)は言葉(グロッサイ)と同じ言葉だ。神の霊の最初の賜物として舌=言葉が与えられ、弟子たちが語り始めたことを、ルカは「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と表現した。それは見えないものを何とか伝えたいというルカ特有の表現であり、私たちも何が起きたかの現象に捕らえられるよりも、ルカが何を伝えたいかを考えることが大事だ。バプテスマのヨハネは「メシアは聖霊と火であなたたちにバプテスマを授けられる」と預言したが(ルカ3:16)、その出来事が今起こり、「一同は霊が語らせるままに、他の国の言葉で話し出した」とルカは報告しているのだ。神の息吹が弟子たちに吹き込まれることによって、教会が御言葉を語る存在に変えられた。その語る言葉が奇跡を巻き起こした事を知って欲しいとルカは訴えている。
・霊の弟子たちへの降下は、教会を宣教へと導き、それは傍観者である民衆への語りかけになった。物音を聞いて、多くの人たちが、集まって来た。彼らは多くの国々から、エルサレムに集まって来たユダヤ人であった。その人びとに向かって、弟子たちは、それぞれの国の言葉で、福音を語り始めた。その語られた内容が、2:14以下にあるペテロの説教である。
2.語ることのできない者が語る者に変えられた
・今日の招詞にエレミヤ20:9を選んだ。次のような言葉だ。「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、私の心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、私は疲れ果てました。私の負けです」。
・エレミヤはイエスの弟子たちより600年前に現れた預言者だ。彼は人々に「神に背いたあなた方を神は滅ぼされる。だから悔い改めて神の赦しを求めよ」と語った。人々はエレミヤを嘲笑した「私たちは、アブラハムの息子であり、選ばれた民だ。神はこのエルサレム神殿におられ、私たちを守っていて下さる」。その人々にエレミヤは主の言葉を伝える「私の名によって呼ばれるこの神殿に来て私の前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。私の名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり、私にもそう見える、と主は言われる・・・私は、お前たちの兄弟である、エフライムの子孫をすべて投げ捨てたように、お前たちを私の前から投げ捨てる」(エレミヤ:10-11)。エフライム=北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされたように、神はこのたびはバビロンを用いて、あなた方を攻め滅ぼす計画を持っておられる、だから悔い改めよとエレミヤは語った。
・この預言に人々は怒り、エレミヤを捕らえて殺そうとしたが、エレミヤは危うく難を逃れ、主の前に訴える。その言葉が、招詞の言葉だ。「主よ。あなたの言葉を語る私を人々は殺そうとし、いくら語っても聞こうとしません。それなのに語らざるを得ない。あなたは私に何をされたのですか。あなたに逆らうことは出来ません」とエレミヤは告白する。主の言葉を注がれた者は、語らざるを得ない。預言者エレミヤが体験した出来事が今弟子たちの上に臨んでいる。
3.言葉が人々を悔い改めさせる
・ペンテコステの出来事は、語る力がなかった教会が語る者に変えられた出来事だ。ペテロは群集を前に「あなた方が十字架にかけて殺したイエスを神は復活させられた。そのことを通して、イエスこそ神の子であることが示された。私たちはその証人だ」と語り始める。ペテロはイエスが捕らえられた時、イエスの後を追って大祭司の邸まで行った。そこで邸の女中から「あなたもイエスの仲間ではないか」と問われ、「その人を知らない」と否認した男だ。二ヶ月前には、一人の婦人に対してさえ「イエスは主である」と語れなかったペテロが、今は群集を前に、「あなたたちは神の子を殺した。しかし、神はそのイエスを復活させられた」と公然と語る。神の霊が死んだような弟子たちに吹き入れられ、大胆に御言葉を語る者とされたのだ。
・この時、弟子たちは語る準備が出来ていたわけではない。イエスの十字架から50日、昇天の日から10日目しか経っていない。何の準備も出来ていない弟子たちが、霊に動かされるまま、語り始める。語る内容は、「あなた方が殺したイエスこそ神の子である」と言う、驚くべき内容だ。弟子たちを取り巻く状況が変わったわけではない。2ヶ月前にイエスを捕らえて処刑した、大祭司や律法学者は依然としてエルサレムの支配権を持っていた。群集はイエスの弟子たちをカルト集団であるかのような不信の目で見ていた。その人々にペテロは語り始めたのだ。ここで語れば自分たちもまた捕らえられ、処刑されるかもしれない状況は続いている。それでも語る、語らざるを得ない。
・語らざるを得ない、準備が出来ていようといまいと、神の霊が語らせる。それがペンテコステに起こったことだ。そして、聖霊に押し出されて語られた言葉は、人々を動かした。人々はペテロの話に心を打たれ、「兄弟たち、私たちはどうしたら良いですか」と問いかけた。「私たちは神の子を殺すという大罪を犯した。そんな私たちを神は赦して下さるだろうか」と人々は哀願した。その人々にペテロは言う「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒行伝2:38)。ペテロの勧めに従い、この日に3000人がバプテスマを受けた。聖霊が語らせる言葉は人々に「どうしたら救われますか」と言う悔い改めを促すのだ。言葉を通して、信仰と服従が造り出され、キリスト者が生まれた。この出来事は今日までも続いている。この教会の会堂でも聖霊に押し出された真実の言葉が語られる時、同じ反応が、回心が与えられるだろう。
・私たちはこの神の言葉の力を信じて、宣教を続ける。その言葉とは「私たちは神から離れたため、死に向かって歩いている。その私たちのために、キリストは死に、復活された。その復活を通して、私たちは死から解放された。だから、現在の生を生かされた者として生きることが出来る。神は私たちが戻ることを待っておられる」という内容だ。この言葉は、ペテロの言葉と同じように、無関心な人々に向かって語られ、人々の嘲笑を招くだろう。ペテロの言葉を聴いたある人たちは弟子たちの熱狂を見て、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」(2:13)と嘲った。神は霊であり、見えない。見えないものを宣教する私たちを人々は嘲けるだろう。しかし、風が見えなくとも存在するように、神の霊は私たちと共にある。そして神の言葉は、少数であれ、聴く人々の心に届き、回心をもたらす。この言葉の宣教を教会は2000年間続けてきたし、これからも続ける。神は生きておられ、神の息吹は私たちに真実の言葉を与え、その言葉は人々の生き方を根底から変える。その出来事がペンテコステの日に起こり、今も起こり続けている。
・神の言葉は力を持つ。それはイザヤが証しした通りだ「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、むなしくは、私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす」(イザヤ 55:10-11)