江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年2月13日(マタイ4:1-11、人はパンだけで生きるのではない)

投稿日:2005年2月13日 更新日:

1.受難節の始まり

・今週から、私たちは受難節に入った。受難節は、2月9日の「灰の水曜日」から3月27日の復活日までの40日間(日曜日を除く)で、キリストが何故十字架で死なれたのかを改めて考える時だ。期間が40日と定められたのは、キリストが荒野で40日間断食され、苦しみを受けられたからだ。今日は、受難節第一主日を覚えて、キリストの荒野での試練について、学んでみたい。

・イエスは宣教の始めにバプテスマを受けられた。バプテスマの時、天が開いて声が聞こえた「これは私の愛する子、私の心にかなう者」(マタイ3:17)。イエスが、ご自分が神の子として世に遣わされたことを自覚されたのは、この時であったであろう。そして、神の子として何をすれば良いのか、それを聞くためにイエスは荒野に導かれた。その荒野で40日間断食され、空腹を覚えられた。40と言う数字は聖書では試練の時を示す。ノアの洪水では40日40夜雨が降り続いた。モーセはシナイ山で十戒を受ける時、40日間断食をした。イスラエルの民は約束の地に入るまで、40年間荒野をさまよった。イエスの試練もまた、神から与えられた。「霊に導かれて」(マタイ4:1)とあるように、イエスを荒野に導かれたのは、神ご自身であった。

・40日の断食によって空腹が絶頂に達した時に、声が聞こえた「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイ4:3)。その声は言った「多くの人はパンが無く、飢えている。今、石をパンに変えれば、みんなが食べられるではないか。石をパンにして人々の求めを満たすことが神の子の使命ではないのか」。イエスには石をパンにする力が与えられていた。後に、イエスはガリラヤ湖のほとりでは、5つのパンで5千人を養われている。神の子として、石をパンに変える力が与えられているではないか。その力を用いて飢えている人々を養え、それこそが神の子として、やるべきことではないかと声がささやいた。その声はイエスの内面の思い出会ったのだろう。それが「サタンの誘惑」として、ここで表現されている。

・パレスチナの地は元々豊かな土地、乳と蜜の流れる国と言われたところだ。みんなが食べるだけの穀物を生産するだけの土地の豊かさを持つ。しかし、時代が進むに従い、金持ちが土地を買占め、農民は土地を奪われて小作農となり、平常でもやっと食べることの出来るぎりぎりの生活に追い込まれていた。そのため、旱魃や災害が起こり、不作になると、たちまち飢餓に追いこまれる。イエスの時代はそういう状況だった。多くの人がパンを食べることの出来ないのは、食べ物の不足ではなく、配分の不公平の故であった。従って、今日のパンを与えても、明日はまたパンがなくなる。その状況を解決しない限り、ここで石をパンに変えても、問題は解決しない。むしろ、石をパンに変えてはいけないのだ。石をパンに変えることによって、十分な穀物はあるのに、パンが食べられない人がいるという現実が隠されてしまう。イエスは奇跡を起こして問題を解決することを拒否された。イエスは言われた「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(4:4)。

2.人はパンだけで生きるのではない

・「人はパンだけで生きるのではない」という言葉は申命記8:3にある。2節から読んでみよう。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

・エジプトを脱出したイスラエルの民は、荒野を40年間放浪した。荒野だから、食べ物に乏しい。食べることの出来ない日もあった。民は神を呪い、エジプトを出るのではなかったと文句を言った。エジプトでは、彼らは奴隷であったが、食べ物はあった。不平を言う民に、神はマナを与えて養われた。エジプトを脱出した民が、まず導かれたのは荒野であった。荒野で40年もの長い間放浪した。何故、荒野の40年間が与えられたのか。それは誰が食べ物を与え、誰が水を与えているかを、身をもって知るためであった。食物や水の有難さは、無くなって見ないとわからない。無くなってみて、初めて水や食べ物がどんなに貴重であるか、誰がそれを与えてくださるのかがわかる。

・「人はパンだけで生きるのではない」。この箇所をある人は次のように訳している「パンが無くとも人は生きられる。もし無ければ、神はそのお口から出る言葉の一つ一つでパンを造って、人を生かしてくださる」(塚本虎二「福音書」)。生きるために必要なパンは、父なる神が与えて下さるから、あなたたちは人間として生きるために、もっと大事なもの、霊の糧を求めよとイエスは言われた。しかし、人は反論する「人はパンのみによって生きるのではない。それは正しい。でも、パンがないと生きることは出来ない。だから、まずパンが欲しいのだ」。まず、パンが欲しいと思うとき、生きるためのあらゆる行為は正当化される。私たちは言う「この社会は生存競争なのだ。勝たなければパンを食べることは出来ないのだ」。私たちはパンをめぐって争う。しかし、パンは食べてもすぐに空腹になる。私たちの欲望、おいしい食べ物を食べたい、良い地位につきたい、良い暮らしをしたい、等の願いは、仮に満たされても、すぐに満足できなくなる。石をパンに変えても、何も生まれないのだ。人はパンだけで生きる存在ではないからだ。


3.石をパンに変えても、何も生まれない

・申命記の言葉をもう少し読んでみよう。申命記8:4からだ。「この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる」(申命記8:4-7)。「人はパンだけで生きるのではない」、食べ物が豊かにある私たちは、苦労せずに言える。パンがある時に「パンだけで生きるのではない」と言うことは簡単だ。試練のない時に「試練は神からの祝福だ」と言うことも簡単だ。しかし、目の前からパンがなくなり、飢えている時に「人はパンだけで生きるのではない。神が養って下さる」と言えるか。苦しみの出口の見えない時に「試練は祝福だ」と言いきることが出来るか。ここに信仰の問題が問われている。「あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる」、この神の愛を信じ切ることが出来るかという問題だ。篠崎教会は、今年で36年周年を迎える。36年も経ったのに、小さい群れのままだ。小さいから、いろいろな不足が生じる。私たちは神に文句を言う「36年も頑張ったのに、何故私たちの教会は小さいままなのですか」。神は答えられる「何故、イスラエルの民は40年間も荒野をさまよう必要があったのか。誰が民を養っているかを知るためであった。あなたたちの教会はまだそれを知らない。だから、私は石をパンにすることをしない。あなたが自分で種を蒔き、十分な収穫を得るまで、あなたは待たなければいけない」。人間の側から見た苦難は、神の側からみれば試練だ。神は私たちをよい地に導きいれるために、今荒野を歩くことを命じておられる。私たちは教会の現実を訓練の時として受け容れる。舞浜伝道所も会堂がないという試練の中にある。会堂が無い故に、教会成長の制約がある。それはそれで良い。本当に必要であれば、父なる神が与えて下さる。今、会堂が与えられないのは、会堂よりも大切な物があるということなのだ。

・人はパンだけで生きるものではない。これはイエスが十字架上で証しされたことだ。イエスは十字架にかかって死ぬ必要などなかった。ユダヤ当局が捕らえようとするのであれば、国外に逃げることも出来た。あるいは、当局ににらまれないように、言動を控えることも出来た。しかし、イエスは敵の中心地であるエルサレムに行かれ、十字架で死なれた。十字架に架けられたイエスに人々は言った「神の子なら自分を救え。今すぐ十字架から降りるが良い。そうすれば、信じてやろう」(マタイ27:42-43)。もし、イエスが誘惑に負けて、十字架から降りられたら、何が起こったのだろう。人々は驚き、イエスを崇めたかも知れない。でも、それだけだ。イエスは私たちとは無縁の存在であっただろう。イエスは十字架で死なれる事によって、奇跡を起こさないで、神の御心に従うことを通して、私たちの救い主と為られた。イエスは言われる「パンが足りないという現実から逃げるな。石をパンに変えても何も生まれないのだ。何故パンが足りないかを考えよ。そのために試練が与えられているのだ。神はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。そのことを信じて生きよ」と。

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