江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年10月9日説教(1ペテロ4:7-11、試練の中で生きる)

投稿日:2005年10月9日 更新日:

1.迫害の中で書かれた手紙

・今日、私たちはペテロの手紙を読むが、この手紙の背景にはローマ帝国によるキリスト教への迫害、弾圧がある。手紙には試練、苦しみ等の言葉が繰り返し出てくる。例えば1:6-7「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」。火のような試練があなた方を襲っている、ローマ帝国のキリスト教徒迫害が始まった60年代後半にこの手紙は書かれた。キリストの十字架と復活を信じ、御言葉に従って生きようとしただけなのに、その生き方が世から迫害を受けた。ローマ帝国は皇帝を神として拝むように諸国民に命じたが、キリスト者たちはこれを「偶像礼拝」として拒否した。兵士としての義務に応じよとの命令にも、「主は武器を捨てなさいと言われた」として従わなかった。いつの間にか、キリスト者たちは、世の秩序を乱す不埒ものとの烙印を押され、投獄され、殺される者も出てきた。

・迫害の中で、人々は怖れ、困り果て、教会の中にも動揺が生じていた。故に、ペテロは小アジアの信徒たちを慰めるために、手紙を書いて、弟子のシルワノに持たせた。彼は手紙の中で、「このような試練が来ることを驚き恐れることなく、むしろキリストの苦しみに預かることを喜びなさい」と勧める(4:12-13)。キリストは正しい方であったのに、囚われ、十字架で苦しまれ、苦しみを経て復活の栄光に入られたのだから、あなたがたもいま与えられた苦しみを神からの試練として受け入れ、喜びなさいと言われている。迫害の中で、どのように毎日を送るべきか、それをペテロは書く。

・4章7節でペテロは言う「万物の終わりが近づいている」。これは世の終わりを示す言葉ではない。万物は主の御手の中にある。迫害者といえども被造物、終わりを持つ有限者に過ぎない。時が来れば、主は罪を犯した者を裁いて下さる。だから、あなたがたは「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」(4:7)とペテロは勧める。「思慮深く=心を確かに、慌てふためくな」、「身を慎め=我を忘れるな、きちんと見定めよ」の意味だ。分別を忘れて慌てふためくな。全ては神の御手の中にある。迫害者もまた神の器に過ぎない。だから祈りなさい、神が何をしようとしておられるのかをたずね求めなさい。そして、「心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからだ」と勧められる。共同体の中で互いに助け合って、この試練を耐えなさい。試練は神から来る、故に耐えられないような試練を神は与えられない。この試練を通して、あなた方の信仰を金や銀のように精錬するために、現在の苦しみがあることを知りなさいと言われている。


2.私たちにとっての試練

・今の私たちは、当時の教会が置かれていた、迫害の中にはない。私たちは皇帝を拝めとも言われないし、戦争に行けとも言われない。しかし、御言葉に真実に従おうとする時、同じような試練が来ることを覚える必要がある。カネボウの会計監査で、会計士が粉飾決算に関与した罪で逮捕された。粉飾であることは知っていたが、断ると得意先を失いかねないとして、架空在庫を計上して利益操作に協力した。彼がクリスチャンだったら、どうしたろうか。「自分はそのような不正には関与できない」として会計士の一人が拒否すれば、彼は監査法人の中で難しい立場に追い込まれたであろう。また、道路公団の橋梁工事発注に伴う談合事件も世を騒がしたが、工事会社の担当者が自分は信仰によりそのような不正はしないと拒否したら、彼もまた勤め先の中で困難な状況に追い込まれたであろう。

・私たちが信仰を真摯に貫こうとした時、私たちもまた迫害や試練に遭遇する。状況は変わっていない。ペテロは言う「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです」(4:3-4)。このような状況は現代でも生じるのだ。

・私も思いがけず、このような困難にぶつかった事がある。私が夜間の神学校に行き始めたのは45歳の時だった。週4回、夕方の6時半から授業があり、6時には会社を出た。それまでの私は会社人間で、夜の9時、10時まで残業していた。部下も同じだった。それが部下を残して6時には会社を出る。会議等でやむを得ず行けない時は学校を休んだが、できるだけ授業に出るようにした。半年が経ち、1年が経つうちに、周囲の目が変わってきた。仕事は時間内に精一杯行ったが、会社が求めるのは遅くまで残業する奉仕だった。2年が経った時、九州の福岡支店への転勤命令が出た。明らかな降格人事だった。うろたえ、あわてた。ペテロは試練にある教会に「心を確かにし、身を慎んで祈りなさい」と命じているが、とてもそのような気分になれず、重い心で福岡に赴任した。元々神学校に入学したのは、個人的な悩みがあり、それを解決するために、聖書を学び直したいという思いの故であった。会社を辞めて牧師になろうとは思いもしなかった。しかし、この事件を契機に会社の持つ意味合いが変わってきた。「万物の終わり」が見えてきた。会社が相対化されて来た。やがて、会社を辞め、牧師になりたいと願うようになった。今ではこの試練は神から与えられたものであり、試練を通して道を示されたと感謝している。

3.試練の先にあるもの

・今日の招詞にヘブル12:11-12を選んだ。次のような言葉だ。「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」。

・ヘブル書もまた、迫害の中で書かれた書簡だ。著者は、迫害の中で混乱する教会に対して言う「この迫害は神があなたがたを鍛錬するために与えられたものだ。鍛錬は当初は苦しいかもしれないが、この苦しみを通してあなたがたの信仰が精錬される。父は愛するものを鍛え、子として受け入れるものを鞭打たれるのである。だから負けるな。なえた手と弱くなった膝をまっすぐにせよ」。ペテロが言うのも同じだ「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(〓ペテロ1:7)。迫害に負けるな。それは神が与えたもう試練なのだ。いつかは終わる。そのような希望を訴える。

・ペテロはこの手紙を書いてまもなく、ローマで殉教する。紀元64年ネロ帝のキリスト教迫害の時に、十字架にかかって殺されたと言われている。その事実が私たちに告げるのは、試練あるいは鍛錬は、私たちの命を捧げることさえ含まれると言う事実だ。それを虚しいと思うか、それで良いと思うかは、私たちの受け止め方だ。ペテロは言う「(キリストは)ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(〓ペテロ2:23-24)。キリストは十字架を通って復活という栄光につかれた。キリスト信徒を殺したローマ帝国は250年後にキリスト教を国教とする。悪がキリストの前に膝をかがめたのだ。

・万物は終わる、世と世の者は過ぎ去る。私たちはそれを信じていく。だから私たちもキリストの後に従うのだ。私たちの本籍は天であり、使命を果たすために、この地上の生が与えられた。そして役割を終わると、天に召され、帰っていく。そう考えると、この地上の生がどのような形で終わろうとも大きな問題ではない。むしろ、地上において与えられた使命をどのように果たすかが一番重要な問題だ。最後にペテロ4:10を読もう「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」。

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