江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年10月16日説教(ヨハネ黙示録7:9-17、目を開いて見よ)

投稿日:2005年10月16日 更新日:

1.幻を見るヨハネ

・今日、私たちは最後の聖霊降臨節を迎える。聖霊降臨節は6月のペンテコステから始まり、10月まで23週の長い時を過ごす。聖霊降臨節の間は、世にある教会を考える時だ。だから私たちは使徒たちの手紙を礼拝で読んできた。今日はその手紙の最終回、ヨハネの黙示録だ。ヨハネの黙示録は、ローマ帝国の激しい教会弾圧の中であえいでいた小アジアの7つの教会に送られた手紙だ。イエスは「時は満ち、神の国は近づいた」として、宣教を始められた。それから70年が過ぎ、教会は迫害の中にある。指導者は捕らえられ、信徒も社会から閉め出されている。「これが神の国なのか、どこに神の平安があるのか、いつまで続くのか」、人々は恐れ惑い、信仰を捨てようとさえしていた。そのような人々にヨハネは幻を語る。キリストは近づきつつある御国のために古き世を終わらせ、地上の悪魔と化したローマも滅びの中にある。私たちの目には見えなくとも、天上では最後の戦いは始まっており、まもなく地上でも起きる。だから、あわてるな、あきらめるなと慰める。
・ヨハネはキリストの再臨と神の国の到来は既に始まっていると伝える。時は満ちたのであり、現在は終末に向かう過程にあるのだと述べる。それを具体的に示す幻が6章から語られる。キリストが7つの封印を開くと、神の怒りが裁きとして現れる。最初は白い馬に乗った騎士が現れる、彼はローマを襲う戦争を啓示する。次の赤い馬に乗った騎士はローマが内乱と暴動に苦しめられる様を描く。三番目の黒い馬に乗った騎士はローマが飢饉に見舞われることを預言する。第四の青白い馬に乗った騎士は、帝国が疫病の災いに襲われることを示す。第五の封印が開かれると、殺された殉教者の声が響く「いつまで不正が続くのか。早く正義を見せて欲しい」。それに対して「数が満ちるまで待て」と言う声が答える。今しばらくは迫害により殺される者が出る、それが主のご計画だと。第六の封印が開かれると、大地震が起こり、太陽と月は光を失い、星が天から落ちる。古い天地が滅ぼされる。
・その時、讃美の声が聞こえてくる。それが第7章だ。キリストに従って死んでいった者たちが、神の僕の刻印を押されて、天の礼拝堂に集まり、讃美している。7:9-10「見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ『救いは、玉座に座っておられる私たちの神と、小羊とのものである』」。国々から集められた人々が白い衣を着て神と御子の前に集い、讃美しているのだ。それに呼応して天使達が歌う「アーメン。アーメン」。
・地上では迫害の嵐が吹き荒れているのに、天上では神を讃美する声がこだまする。地上の出来事が忘れられているのではない。人々のまとう白い衣は小羊の血で洗い清められている。集まった者たちは地上でそれぞれ苦難を背負い、天に召された。その彼らが天上では休息を許されている。天使たちは歌う「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。・・・小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(7:16-17)。地上では彼らは飢え渇きに苦しみ、涙を流してきた。ここではもう飢えも渇きも涙もない。ヨハネは地上の教会に書き送る。「今あなたたちは迫害の中で、飢え渇き、涙を流している。しかし、天上ではそのような不義を裁くための軍勢が既に地上に派遣され、苦しみの末に天に召された民が主の前に集まり讃美している。殉教を恐れるな、彼らは肉の命を奪うことは出来るかも知れないが、永遠の命が神により与えられているのだ」と。

2.何故、私たちは黙示録を読むのか

・この手紙が書かれた紀元90年当時、ローマの権勢はかげりを見せ始め、各地での暴動が頻発し、飢饉や疫病により大勢の人が死んでいった。ポンペイの町は地震によって廃墟となった。エルサレムは滅ぼされ、ユダヤ人は国を亡くした流浪の民になった。ヨハネ自身も迫害により孤島に流されている。そのような災いの中にヨハネは神の裁きを見、その裁きを通して神の国が地上に来つつあることを見た。当時の人々にとってこの手紙は幻想ではなく、真実なものであった。
・昭和20年8月、空襲で焼け野原になった東京に立ったクリスチャンたちも、目の前の光景に神の裁きを思ったことだろう。死者であふれた広島の原爆を体験した人にとってもヨハネ黙示録は幻想の書簡ではない。今、私たちがヨハネ黙示録を見て、それを自分の出来事と感じることが出来ないとしたら、私たちが見るべきものを見ていないからではないか。日本は平和で退屈かも知れないが、世界は違う。イラクの戦争はテロとの戦いと言うよりも内乱になり、イラク人同士の殺し合いが続く。パレスチナではユダヤ人とパレスチナ人が争い、ロシアでは少数民族がロシア人と戦う。アフリカでは飢餓と疫病が続いている。南アフリカでは、8人に1人がエイズウイルス感染者であり、その数は国を滅ぼしかねないほどの勢いで増え続けている。治療薬が開発されても買うことが出来ずに死んでいく。大津波でインドネシアでは10万人が死んだが、同じ災害でもアメリカでの死者は千人に過ぎない。貧困による人災だ。人々は今日でも戦争によって殺され、飢饉で飢え死にし、疫病に苦しんでいる。人の罪が人を苦しめている。黙示録の世界、神の裁きは続いているのだ。
・この日本でも状況は変わらない。精神や肉体に障害を持つ人々がどのような苦難の中にあるのか、私たちは知らない。引きこもりや登校拒否の子供を持つ親の悲しみも知らない。外国から出稼ぎに来ている不法滞在者が入国管理局でどのような扱いを受けているのかも私たちは知らない。見ようとしないからだ。

3.目を開いて見よ

・ローマ時代の信徒たちは帝国の迫害を受けた。皇帝を神として拝むことを拒否したからだ。拝めば迫害はなかった。しかし、拝めばクリスチャンでなくなる。私たちが世の苦しみを見ない限り生活は平和だ。しかし、見て、何かをし始めたとき、困難が始まる。その困難の中で、私たちは信仰の意味を知る。今日の招詞にマタイ25:45-46を選んだ。次のような言葉だ「そこで、王は答える『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである』。こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである」。
・この言葉は最後の審判において語られる。最初に正しいことをした者が呼ばれる「お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。だからお前たちは神の国を受け継ぐ」。彼らは自分たちがいつそのような行為をしたかを知らない。すると神は言われる「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことだ」。次に地獄に落ちる者たちが呼ばれて宣告される「お前たちは、私が飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかった。故に永遠の火に焼かれる」。その彼らに言われる言葉が今日の招詞だ「この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことだ」。
・信仰が個人のものに留まっている限り、私の救いに固執している限り、その信仰は人を永遠の命に導かないと宣言されている。黙示録が語るのは、私たちは既に神の僕の刻印を押されているということだ。だから、気にかけるべきは自分ではなく隣人なのだ。隣人との関りを通して神を知るのだ。それは抽象的な行為ではない。出エジプト記22章21-23節は語る「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼が私に向かって叫ぶ場合は、私は必ずその叫びを聞く。そして、私の怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは孤児となる」。あなたが寡婦や孤児の窮状を見ようとしないのならば、私はあなたの命をとり、あなたの妻と子を寡婦にし、孤児にする。その時、あなたは地獄の炎の中で歯軋りをする、そのことを思えと迫られている。今の私たちの生活は平和で退屈なのではない。黙示録の時代は続いているのだ。「あなたは何のために主に選ばれ、教会に集うのか。あなたを通して私の業を行うためではないか。目を開け、見よ」。黙示録は私たちにそのよう迫る。

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