江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年10月23日説教(創世記2:4-25、他者を愛するために)

投稿日:2005年10月23日 更新日:

1.人間の創造

・今日から私たちは降誕前節に入る。クリスマスの9主日前から、降誕前節は始まる。キリスト降誕の意味を考え、クリスマスを迎える準備を行う時だ。この期間、私たちは聖書を最初から、創世記から読んで行く。何故私たちに罪があるのか、何故キリストが来られたのか、十字架による罪からの救いとは何かを知るために、創造以来、人はどのような歩みをしてきたのかを聖書から聞いていく。今日はその第一回目として創世記から人の創造について学ぶ。
・創世記は2章4節から人の創造について語り始める。人が作られる前、大地には木も草もなく、仕える者もいなかった(2:5)。耕す=アーバドは仕えるという意味も持つ。仕える人がいなかったので、大地は何も生まなかった。人が地を耕し、神と共に働く故に大地は収穫をもたらす。共に働くものとして、神は人は創られたのだとここで言われている。
・その人を神は土の塵で創られた(2:7)。土=アダマーで創られた故に人=アダムと呼ばれる。土から創られたことは、人は神の前では土くれのような、つまらない存在であることを示す。人は自分の命を左右することも出来ないし、死ねば土に返っていく存在に過ぎない。その無価値な存在に、神は生命の息を吹き込まれた。神の息が吹き込まれた故に、人は生きる者になった。人は神の息、霊が共にある限り人であるが、霊が取り去られると動物に落ちてしまう存在だと言われている。
・そのような人に、神は園を耕し、管理する業を委ねられた。この園がエデンの園=パラダイスと呼ばれる。人は元々楽園の住人として創られた。神は人のために植物や動物を創造された。しかし、何かが足らない。18節「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。彼に合う=ネゲド、彼と向き合うと言う意味だ。人と向き合う助け手、共に生きる存在を神は創られた。神は人を他者と向き合うことを通して、生きるものとされた。人が人として生きるためには、人格的に呼応する他者の存在が必要だと言われている。
・そして最初の他者として女が創られる。21-22節「人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた」。人と共に生きる者として女を創造された。「男=イシャーから取られたものだから女=イシュと呼ぼう」。男と女は本能的に相手を求め合い、その結果として二人は一つになり、それが子という命を生み出していく。男女は一つの身体から創られた故に、お互いを求め合うとの理解がここにある。
・人と妻は二人とも裸であったが、それを恥ずかしいとは思わなかった。これは創造されたばかりの男女はまだ幼かったことを示す。幼児は裸であっても恥ずかしいとは思わない。幼くて自分の状況を理解できないからだ。やがて堕罪=具体的には、神の戒めに逆らい、善悪の木の実を食べることを通して、自分たちが裸であることに気づき、裸を恥じ、着物を求めるようになる。

2.他者と生きることが出来ない存在

・人は女を与えられた時、「これこそ私の骨の骨、肉の肉」と呼んだ。女が作られることによって、人は一人ではなく、共に生きるものとなった。しかし、この関係が罪を犯すことによって変化していく。16節「(園の中央には命の木と善悪を知る知識の木が植えられ)、善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と命じられた。しかし、人は、禁じられたその実を食べ、神から譴責される。禁断の実を食べたことにより人は罪人となり、楽園を追い出されたと通常は理解されているが、聖書を注意深く読むとそうではないと思える。人の犯した最大の罪は、神の命じた戒めを守らなかったこと以上に、神が与えて下さった恵みを喜べなかったことだ。一人では生きることが出来ない故に与えられた他者を、いざとなると捨ててしまったことだ。
・人は妻が与えられた時「私の骨の骨、肉の肉」と呼び、これをいとしんだ。その人が自分の責任を問われるようになると「あなたが共にいるように言われた女が食べよと言ったのです」(3:12)と責任を妻に転嫁する。彼は自分の犯した罪の責任を取ろうとしないばかりか、その責任を神につき返す「あなたが妻を与えなければこのような罪を犯さなかった」。女も言った「蛇が悪いのです。あなたが蛇さえ創らなければ罪を犯さなかった」。「私が悪いのではない、あなたが悪いのだ」、その主張は他者を捨てると共に、神をも呪う行為だ。神は人を楽園から追放することを決められた。まだ楽園に住むにはあまりにも幼く、外に出て成長する必要があったからだ。
・神は人を園から追放された。しかし、「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」。神は人間を裸のままに追放されたのではない。着物を人間のために用意し、彼らを保護した上で追放された。死ぬべき人を生かそうと決意されたのだ。人は楽園を追放され、額に汗して地を耕す者になった。人は地を耕して初めて、太陽と雨がなければ収穫はなく、それは人の力では支配出来ないもの、ただ神の恵みにより与えられる事を知った。「食べれば死ぬ」と言われた罪を犯したのに、神は生きるためのパンを下さる事を知った。女は苦しんで子を産むことを通して「お前たちは死ぬ」と呪われた存在であるのに、生命の継承を許してくださる神の恵みを知った。人は楽園追放を通して、初めて神の愛を知った。人は過ちを通して成長していく。ここから、人間の歴史が始まったと創世記は言う。

3.園にもどれと言われる神

・私たちはこの創世記の物語を古代バビロニアの創造神話や日本の古事記のような神話として聴くのだろうか。神話であれば、それは現在の私たちの生き方とは関わりがない、単なる物語だ。そうではなく、私たちは創世記を、古代イスラエル人の罪の信仰告白として聴く。人は何故、他者を愛することが出来ないのか、人は何故、「骨の骨、肉の肉」と呼んだ最愛の人さえも、いざとなれば平気で切り捨ててしまうのか、私たちは創世記を通して、本当の自分の姿、罪を知り、その罪からの解放を求めるようになる。
・今日の招詞にルカ23:42-43を選んだ。次のような言葉だ「そして『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください』と言った。するとイエスは『はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる』と言われた」。
・イエスは二人の犯罪人と共に十字架につけられた。犯罪人の一人は自分の罪を悔い、「このような私でも天国に行くことは出来るでしょうか」とイエスに懇願した。それに対してイエスが言われた言葉が「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言う言葉だ。この楽園=ギリシャ語パラデイソス(英語=パラダイス)はヘブル語の園=パルデスから来る。エデンの園のことだ。イエスは楽園を現実の場所として語られている。それは夢や空想のおとぎ話として語られているのではない。明らかにイエスは楽園を一つの場所として理解しておられた。
・イエスは最後の晩餐の席上でも弟子たちに言われている「私の父の家には住む所がたくさんある。あなたがたのために場所を用意するために私は天に帰る」(ヨハネ14:2)。最初の人アダムは人を愛することが出来なかった故に楽園を追われた。私たちもアダムの末として人を愛することが出来ない。故に天の楽園に戻ることは出来ない存在だ。その私たちのためにイエスが十字架で死なれ、十字架を通して、私たちが天に戻る道を与えられた。「あなたは今日、私と共に楽園にいる」。この約束の言葉を与えられ、私たちは新しく生まれた。だからイエスは言われる「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。
・互いに愛し合う、これは信仰なしにはできない。夫婦であれ、親子であれ、友であれ、私たちは自分のためであれば、平気で他者を捨てる存在なのだ。その自分の本当の姿を知れ、あなたも十字架にかけられた罪人なのであることを知れ、知る時に悔い改めが生まれ、救いを求めるうめきが生まれる。その時に、あなたの罪は赦され、あなたも他者のために死ぬことが出来る者となる。これから私たちは旧約聖書を通して人間の歴史を読んでいくが、旧約が語ることは、人の歴史は争いの歴史であると言うことだ。創世記2章が語るのは夫婦の争い、次週の創世記4章が語るのは兄弟の争い、二週後の出エジプト記が語るのは民族の争いだ。人は他者を愛することが出来ない、そこの私たちの原罪、三浦綾子さんの表現では「氷点」がある。その氷点を十字架につけない限り、人には平安はない。キリストの十字架を仰がない限り、楽園=神の国は来ない。旧約聖書は私たちにそう語る。

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