江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年1月30日説教(マタイ15:21-31、私たちをいやされる神)

投稿日:2005年1月30日 更新日:

1.カナンの女の信仰

・「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ4:23)。人々は次から次へ、病気の人をイエスの許に連れて来た。イエスは彼らをいやされた。いやしてもらった人々はイエスの許を去った。もう用事が無いからだ。イエスは人々の姿に失望された。彼らが求めるのは、いやしだけであり、いやされる神の御心を知ろうとはしない。いやしだけを求め、満たされると去って行く。「イエスはガリラヤを立ち、ティルスとシドンの地方に行かれた」(15:21)とマタイは記す。「立ち」という言葉は直訳すると「退く」と言う意味だ。イエスはガリラヤでの宣教に疲れられて、休息を求めて、異邦人の土地に退かれた。しかし、そこにも人々が押しかけてきた。

・娘が悪霊につかれて苦しんでいる女が、イエスの評判を聞き、治して欲しいと求めて来た。女は叫んだ「主よ、ダビデの子よ。私を憐れんで下さい。娘が悪霊にひどく苦しめられています」。「悪霊に苦しめられている」、恐らくは精神の病を病んでいたのであろう。医者や祈祷師の所に行ったが、誰も治せなかった。女はわらにもすがる思いでイエスのところに来た。「叫んだ」、原文では「わめく、大声で叫ぶ」の意味だ。髪を振り乱し、金切り声を上げて、娘のいやしをイエスに訴えかけた。彼女の叫びの大きさが、彼女の苦悩の大きさを語っている。

・しかし、イエスは何もお答えにならなかった。ガリラヤでは、あれほどのいやしをされたのに、この異邦の土地では沈黙されている。弟子たちはたまりかねてイエスに言った「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」。女にイエスは言われた「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。私はイスラエルを救うために、父から派遣されてきた。「まずイスラエルの民を」と言うのがイエスのお考えだった。しかし、女はあきらめなかった「主よ、どうか助けてください」。あなた以外に頼る人はいないのです、誰も治せなかった、あなたが見捨てたら、私たち親子は死ぬしかないのですと女は訴えた。

・女は必死だった。彼女はイエスの前にひれ伏した。土下座して、イエスの救いを求めた。その女にイエスは言われた「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。犬とは異邦人を指す。「私はイスラエルの子供たちを救うために来た。異邦人の救いは、私ではない誰かが行うであろう」。しかし、この拒絶の後ろには、受け入れがある。子犬とは飼い犬のことであり、野良犬ではない。飼い犬は主人の食べた残りを食べることは出来る。女はそれに気づいた。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。「その通りです、私たちは救われる価値はありません、選ばれた民ではなく、異邦人です。まず、イスラエルの子供もたちが食べるべきです。しかし、神様は私たち異邦人にも恵みを拒否される方ではありません」。イエスは女に言われた「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」。信仰が立派だ=信仰が大きいとの意味だ。あなたの信仰はイスラエル人よりも大きい。イスラエルの人は当然の権利のごとくに私のいやしを要求したが、あなたは神の憐れみを求めた。父はあなたを憐れんでくださるだろう。イエスはこれまでの伝道方針を破って、異邦人の娘をいやされた。

・イエスは女の求めを三度拒絶された。最初は女の叫びを無視され、二度目は「異邦人をいやすことは私の使命ではない」と言われ、三度目は「神の力を異邦人に用いることは私には許されていない」と言われた。このような拒絶の体験を私たちもする。病や苦しみが与えられた時、私たちは必死になって祈る「主よ、どうかこの苦しみを取り去って下さい。どうか、憐れんでください」。しかし、何の答えもない時がある。そんな時、私たちは祈りが無視され、拒絶されたと怒る。そして祈りを止める。この教会にも過去に多くの人が、御自分の、あるいはお子さんのいやしを求めて来られた。そしていやされないと知ると、失望して去って行かれた。カナンの女は必死に求めた。無視され、拒絶されても、求めた。他にあてが無かったからだ。この熱心さがイエスの心を動かした。

2.祈りを聞かれる神

・しかし、同時に、私たちはもう一つの現実を知る必要がある。それは、どんなに求めてもいやされない病があり、どんなに求めても取り除かれない苦しみがあるという事実である。今日の招詞に詩篇22:2-3を選んだ。次のような言葉だ。「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか。なぜ私を遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。私の神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない」。

・悲痛な叫びだ。いやしを求めたのにいやされなかった。苦しみの取り除きを求めたのに、取り除かれなかった。作者の悲鳴が聞こえる。この詩篇はイエスが十字架上で叫ばれた言葉としても有名だ。イエスは最後の時に言われた「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。

・前に、心の病に苦しむ娘を持った母親の手記を読んだことがある。彼女はこう書いている「聖書にイエス様が病人や悪霊に取りつかれている人たちをおいやしになった事が出てきます。その度に思うのは娘のことです。9歳の一人娘は知的障害で自閉症です。もしその当時、私が『イエスと言う救い主が現れて病人を治している』と聞けば、娘を連れてどんなに遠くても行ったことでしょう。『何とか治してほしい。どうぞ治してください』と祈っていると、時々虚しくなります。障害の重さばかり目に付いてしまい、絶望的になります」。心の病を持つ子がいる家族の苦悩は重い。全国精神障害者家族会がまとめた「心の病−家族の体験」という本を読むと、多くの苦しみの言葉がある。ある母親は、精神分裂病で入院した娘から「私の人生を返せ」と言われて泣き崩れた。夫から「娘がこうなったのはお前のせいだ」といわれて、この子を殺して自分も死のうと考えた人もいる。

・しかし、多くの経験者は言う「何故ですかと叫び続ける時、苦しみの大きさに押し潰されてしまう。解決が見えないからだ。しかし、何をすべきかと考えた時に、この状態を受入れられるようになる」。カナンの女も思っただろう「私は何故こんなに苦しまなければいけないのか」。彼女はイエスと対話するうちに、神は私たちの不幸を願っておられるのではなく、幸いを願っておられることに気がついた。だから彼女は言った「子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」。神は私たちが異邦人という理由で見捨てられるような方ではない。神は私たちを憐れんで下さる。そう信じた。この信仰をイエスは「あなたの信仰は大きい」とほめられた。

・祈りが聞かれないように思える時も、神は聞いておられる。私たちの祈りは神に届いている。その祈りは最善の方法で答えられる。ただ、それが私たちの願う方向とは別なこともある事を知ることは大事だ。有名な詩がある。ニューヨークの老人病院に掲げられた詩で、作者はわからない。いつの間にか、多くの人が愛唱するようになった。次のような詩だ。「私は神に求めた、成功をつかむために強さを。私は弱くされた、謙虚に従うことを学ぶために。私は求めた、偉大なことができるように健康を。私は病気を与えられた、より良きことをするために。私は求めた、幸福になるために富を。私は貧困を与えられた、知恵を得るために。私は求めた、世の賞賛を得るために力を。私は無力を与えられた、神に必要とされていることを知るために。私は求めた、人生を楽しむために全てのものを。私は命を与えられた、全てのものに楽しむために。求めたものはひとつも得られなかったが、願いはすべてかなえられた。神に背く私であるのに、言い表せない祈りが答えられた。私はだれよりも最も豊かに祝福されている」。 

・この詩が指し示すことは、祈りは最善の方法で答えられる、ただ、それが私たちの願う方向とは別な時もあるということだ。いやしを求めたのに、病気の継続を与えられる事もある。苦しみの取り除きを求めたのに新しい苦しみが与えられることもある。今いやされないことが最善であることもあるのだ。聖書は、私たちの求めと異なるものが与えられても、そのまま受け止めなさいと教える。時間の経過と共に、神が私たちに最善のものをお与え下さったことがわかるようになる時が来る。その時を、信仰と忍耐を持って待ちなさいと。詩篇22編は絶望の叫びであるように思えるが、実は感謝の歌だ。作者は続ける。「主は貧しい人の苦しみを、決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いて下さいます」(詩篇22:25)。

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