江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年1月23日説教(マタイ5:13-16、地の塩、世の光)

投稿日:2005年1月23日 更新日:

1.あなた方は地の塩、世の光である

・イエスは弟子たちと共に、ガリラヤの地を回り、会堂で教え、福音を宣べ、病気や患いの人をいやされた。大勢の群集がイエスに従って来た。イエスは群集を見て、山に登られ、人々に教えられた。有名な山上の説教がマタイ5章に記されている。イエスの周りを弟子たちが取り囲み、その弟子たちを囲むようにして群衆がいた。その人々にイエスは語られた「あなたがたは地の塩であり、あなたがたは世の光である」。

・塩は生活に不可欠なものだ。塩がなければ食物は腐る。塩を入れない料理はおいしくない。塩は味付けとしても不可欠なものだ。イエスは「あなたがたはこの世において、そのような塩の働きをする。この世にしっかりとした味付けをし、またこの世の腐敗を防ぐ役割をする」と言われている。光は闇を照らし、ものの形を明らかにする。「あなたがたは、この世の闇を照らす者であり、あなたがたによってこの社会は明るくなる」と言われている。しかし、聞く私たちは困惑する。私たちは、地の塩、世の光と言えるような活動はしていない、そんな立派な生き方はしていない。そういわれても困る。

・しかし、イエスの言葉は私たちに迫る。具体的に何をすれば良いのを私たちは考える。ある人は、地の塩になるとは、この社会の腐敗や不正を指摘し、それを改善していく行為ではないかと思った。社会の良心、あるいは見張り塔としての役割だ。運動が支持され、力を持ち、終には腐敗や不正が取り除かれた時、地の塩の役割が果たせたのだと。戦前のクリスチャンたちはそう考えて、社会改革運動に乗り出して行った。賀川豊彦は貧しい人々も連帯すれば豊かになれると考え、消費生活運動や共済運動に力を入れた。今日の生活協同組合や農業共同組合は賀川の遺産だ。海外の宣教団体は学校や病院を作った。ミッションスクールや多くの病院が残った。しかし、それがイエスの言われた「地の塩」としての生き方なのだろうか。

・別の人は、世の光になるとは伝道に励むことだと考えた。教会の本来的役割は伝道であり、伝道が実を結び、多くの人が教会に集まり、クリスチャンの数が増えていけば、この世は良くなる。その時、世の光としての役目を教会は果たしたと。しかし、韓国やアメリカでは、クリスチャンの数が過半数を超えるが、韓国人やアメリカ人を見て、他国の人々が神をほめたたえるとは思えない。それらの国でも、日本と同じように腐敗と不正が蔓延している。そう考えると、クリスチャンの数を増やすことが、求められていることでもない。

・私たちはイエスの言葉の時制に留意する必要がある。それは「塩になりなさい」という命令形でもないし、「塩になれるだろう」という未来形でもない。「あなたがたは地の塩である」と現在形で語られている。あなた方は既に塩なのだ、だから、塩になろうとするのではなく、塩の本質である塩気を失うなと警告される。塩が塩気を失くすことがあるのだろうか。イスラエルの塩は死海で取れる岩塩だ。塩の塊は多くの不純物を含み、水分を吸うと塩が溶け、ただの石になってしまう。「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(マタイ5:13)。あなたがたが、私の話しを聞いても、それを行わず、世の人と同じようにして生きるならば、あなたがたは塩としての役割を失う。

・同じように、福音を聞いたあなたがたは、既に神の光をいただき、その明かりを持つ者となった。そのあなたがたが、明かりをますの下に隠したら何の役にも立たないではないかと言われる。「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」(5:15)。ともし火を升の下におけば、風で火は消えてしまう。せっかく明かりをいただいたのに、それを隠すことをするな。あなたがたは既に光なのだ。その光を世に示し、世を照らすのがあなたがたの役割なのだと言われている。

2.私たちにとって、地の塩、世の光とは何か

・今日の招詞にマタイ5:11−12を選んだ。今日の聖書個所の直前にある言葉だ。「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」。イエスは山上に集まってきた人々を祝福された。「心の貧しい人々は幸いである。悲しむ人々は幸いである。柔和な人々は幸いである」と言う言葉の最後に、今日の招詞の言葉「迫害される人々は幸いだ」という言葉がある。

・迫害されることが何故幸いなのだろうか。イエスに「地の塩、世の光」と呼びかけられた人々は、社会の有力者でもなく、また信仰のあつい人々でもなかった。私たちと同じような普通の人々、むしろ普通以下の、貧しい、社会的影響力を持たない人たちだった。貧乏人や罪人や障害者として、社会から差別され、疎外されていた人々であった。そういう人たちがイエスの周りに集まり、そういう人たちに対してイエスは言われた「あなたがたこそ、まさに地の塩であり、あなたがたこそ、まさに世の光である」。

・「貧しい人は幸いだ」。何故なら、貧しい人は、明日食べるものがあるだろうか、食べられるだろうかと心配して、「明日も食べ物を与えてください」と神に祈ってから床に就く。翌日、食べ物が与えられた時には、養って下さった神に感謝する。豊かな人にとって、食べ物があるのは当たり前で、与えられても感謝などしない。どちらが神に近いか。貧しい人ほど神に近いから、幸いなのだ。「悲しむ人は幸いだ」。何故なら、自分が悲しんで初めて、他者の悲しみがわかる。自分の子供が不登校になって、どうしたらよいか、おろおろして、カウンセリングに行き、不登校の子を持つ親の会に行き、そこで悩みを分かち合うことを通して、助けられ、次には自分が助ける者となる。喜んでいる人は自分の喜びしか見えない。だから、悲しむ人は喜ぶ人よりも幸いなのだ。「迫害される人は幸いだ」。迫害される人は、自分の信仰、自分の行き方を理解し、支持してくれる人が誰もいない。誰も頼る人がいないから、神に頼る。神の憐れみにすがって生きるしかない。その時、神は憐れんで下さる。神の憐れみを知っているから幸いなのだ。人にほめられ、満たされている人は神を求めない。必要ないからだ。そして、神を求めない人は、やがては滅びる。だから、人にほめられ、満足している人は不幸なのだ(ルカ6:26)。

・「あなたがたは地の塩、世の光だ」と言われている。あなたがたとは、この山上の説教を聞いている弟子たちであり、群集だ。イエスは、ご自分に従ってきた人々に向かって、この言葉を語られた。それは、今日、この礼拝に集まってきた私たちに向かっても、この言葉が語られていると言うことだ。私たちの中には、イエスを救い主と信じ、バプテスマを受けた人もいる。その人たちは既にイエスの弟子となった人たちといえよう。まだバプテスマを受けておられない方もいる。でも、イエスの言葉を聞きたいとして、ここに集まって来られた。その方々は、弟子の周りにいて、共に説教を聞いた人々と重ね合わせることが出来る。ここに集められた全ての人に向かって「あなたがたは地の塩であり、世の光である」と語られている。

・塩が塩として働く時、その形は溶けてなくなる。光は自分のために輝くのではなく、相手を照らすために輝く。塩であり、光であることは、自分が溶けて相手を生かす存在になることだ。地の塩、世の光であるとは、立派なクリスチャンになって、その行為で周りを感化することではない。社会を改革するために熱心に行為することでもない。私たちは自分の罪を知り、自分の惨めさに泣いたことがある。だから、ここに集まっている。泣いたことのある者だけが、他者の悲しみを悲しむことが出来る。苦しんだことのあるものだけが、他者の苦しみを理解できる。私たちは既に地の塩、世の光なのだ。だから塩味を失うな、明かりを消すなと励まされているのだ。

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