1.エリヤを養われる神
・パレスチナは乾燥地帯であり、夏は雨が降らず、雨季である秋や春に雨が十分に降らなければ、たちまち日照になり、地は収穫をもたらさず、人々は飢えて死ぬ。古代の人々にとって、誰が天地を支配しているのか、誰が雨をもたらしてくれるのかは、生死に関わる重大な問題であった。カナンの人々はバアルと呼ばれる神を拝んでいた。バアルは農業の神であり、雨をつかさどるとされた。このバアル神という偶像礼拝との戦いが旧約聖書を貫く主題の一つである。偶像とは、雨を降らし、病をいやし、他の民族から守ってくれる神、人間が求める神とはつまるところ、自分に利益を与えてくれる神である。だから、イスラエルの民もしばしば本来の神を忘れ、偶像の神に頼った。今日の日本人が、無病息災・家内安全の神を拝むのも、このバアル礼拝と本質は同じだ。偶像礼拝は人間の欲望の延長線上にあるから、自分より強い者には頭を下げ、弱い者からは貪る。その結果、社会的には不正と悪の横行として現れる。人間を超える神の支配を信じない社会は、弱肉強食の社会になる。
・エリヤの時代はその偶像礼拝が横行し、バアルの祭壇が国中にあふれた。この偶像礼拝を推し進めたのが、イスラエルの7代目の王であるアハブとその妻イゼベルであった(列王記上16:31)。イゼベルは政略結婚によりイスラエルに来たフェニキア王の娘で、彼女が偶像礼拝をイスラエルに持ち込んだ。
・エリヤは王のアハブが貧しい農民であったナボトの土地を欲しがり、彼を殺して、その土地を自分のものにした時、立ち上がって、アハブを責めた「主はこう言われる。あなたは人を殺した上に、その人の所有物まで自分のものにしようというのか」(列王記上21:19)。列王記上21章にあるナボトのぶどう園の物語がこの17章の物語の背景にある。そしてエリヤは神の裁きの言葉を伝えた「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」(列王記上17:1)。
・エリヤは「あなたは神によって王と言う位を与えられながら、神を恐れず、貧しい人の土地を欲しがり、彼を殺した。神はあなたを裁かれる」として、日照を預言した。雨を支配するのはあなたの信仰するバアルではなく、主なる神であることをあなたは知るであろうと言ったのである。この預言によって、エリヤは王に憎まれ、追われる者となった。
・アハブに追われたエリヤはヨルダン川東岸に逃れ、そこで烏に養われたと聖書は言う。烏は動物の中でも汚れた物とされている(レビ記11;15)。恐らくは、アハブ王により圧迫されていた貧しい農民たちが、自分たちのために立ち上がったエリヤをかくまい、保護したと推測されている。その後、エリヤは『シドンのサレプタに行け』との命令を神から受ける。そこで、「一人のやもめにあなたを養わせる」と主は言われた(17:9)。シドンはフェニキアの町であり、王妃イゼベルの出身地、バアル信仰の最も盛んな地、敵地の真ん中に行って生きよとエリヤは命じられたのである。
・エリヤは立ってサレプタに赴く。そこでエリヤが出会ったのは、薪を拾っていた貧しい身なりのやもめであった。エリヤは彼女に、水を飲ませてくださいと頼み、彼女が器をとりに戻ろうとすると、「パンも一切れ下さい」と頼んだ。それに対して彼女は答えた「私には焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。私は二本の薪を拾って帰り、私と私の息子の食べ物を作るところです。私たちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」(17:12)。彼女もまた旱魃の被害を受け,食うや食わずのぎりぎりの生活にまで追い込まれていた。このようなやもめに養ってもらえと神は命令されたのだ。しかし、神の約束を信じるエリヤは動揺しない。彼は答える「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれで私のために小さいパンを作って、私に持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい」(17:13)。
2.私たちを養われる神
・エリヤは神の約束を受けていた。神はエリヤに言われた「私はあなたを養う。やもめの家のつぼの粉は尽きることなく、かめの油はなくならない」。誰がこのような約束を信じることが出来よう。現実につぼの中には一握りの小麦粉しかなく、かめの中にはわずかな油があるだけだった。しかし、やもめはエリヤの言葉に従った。エリヤの信仰が彼女に行為させたのであろう。やもめがエリヤの言うとおりにしたところ、つぼの粉はなくならず、かめの油もなくならず、三人は飢饉にも関わらず、食べて生き残ることが出来た。旱魃は3年半間続いたから、エリヤは2年以上の間、このやもめに養われたことになる。
・ここで一つの疑問が生じる。エリヤを生かすために、何故神は烏とやもめを用いられたのであろうか。烏ややもめは人を養うのに、おおよそふさわしくないものだ。「サレプタ」という言葉は、「炉で精錬する」という意味がある。溶解炉の中に投げ込まれた鉱石や金属は高熱によってドロドロに溶け、不純物が除かれ、純度の高いものになって流れ出てくる。預言者は単なる言葉の伝達者ではない。神の御旨を知るためには、烏に養われ、やもめに養われると言う人間の知恵を超える体験をして、自分の力ではなく、神によって生かされている事を知る必要があった。一旦溶かされて自分が無くなった時、『神は生きておられる』(17:1)と心から証しする者になる。
・烏ややもめが人を養いうるのであろうか。私自身の経験から見て、これはありうる出来事だと思う。私は50歳の時に会社を辞めた。その時、息子は大学3年生、娘は高校2年生であった。会社を辞めて神学校に入ったが、これまでの蓄えを消費しながらの生活だった。いつまで持つのだろうか、このままで息子や娘を無事に学校を卒業させることが出来るのだろうか、そういう不安の中で、神学校で学んだ。卒業後、この篠崎教会に招かれて来た。篠崎は小さな教会であり、大丈夫だろうかとの不安は消えなかった。それから3年、その不安は除かれた。神学校の職が与えられ、給与の不足を補ってくれるようになった。神は養ってくださる、それは私も経験した出来事である。そして、その出来事を経験して始めて『神は生きておられる』と心から証し出来るようになった。
3.養われる神に信頼する
・今日の招詞に申命記8:4−5を選んだ。次のような言葉だ「この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。」
・これはエジプトを出て荒野を40年間さまよい、今約束の地に入ろうとしている民に、主が言われた言葉だ。荒野において、あなたたちは水がない、パンがない、肉がないと文句ばかり言ってきた。しかし、今40年間を振り返ってみればどうだ、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかったではないか。神は言われる『今こそ知れ、私こそあなたの神、あなたを養う者である』。水もない、食べ物もない、その荒野での40年こそが、あなた方の信仰の原点なのだと神は言われている。
・私たちは神が養って下さることを信じ切ることが出来ない。イスラエルには7年目ごとに安息年の規定があった。「6年の間は畑に種を蒔き収穫してもよいが、7年目には土地を休ませよ」との命令である。土地は休ませなければ、地力が衰え、収穫が少なくなる。それが必要だと理解しても人は言う「7年目に収穫がなければ、どうして生きていけるだろうか」(レビ記26:20)。今日の私たちも同じだ「もう一人子供が欲しいが、今子供を生むと仕事を止めなければいけない。そうすれば生活が出来ない」と母親達は言う。「年金の将来が心配だ。このままでは老後の生活が成り立たない」と中高年男性は訴える。私たちの人生はこのような不安で一杯だ。このような不安から解放されるためには、私たちを養なわれる神を、信じ切る体験をすることだ。「サレプタ」に行けと言われれば行くのだ。不安があっても従うのだ。その時、神は道を開いて下さる。その体験を通して、私たちはパウロの言葉の意味を知るのだ。「「神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださった。だから、これからも救ってくださるにちがいないと、私たちは神に希望をかけています。」(〓コリント1:10)。この希望こそが信仰であり、その信仰を持てるように、神は私たちが求めればしるしを与え、導いてくださるのだ。