1.ヨハネとアンデレ、ペテロの召命
・バプテスマのヨハネがユダヤの荒野で宣教を始めたとき、ユダヤ全土から多くの者がヨハネのところに来て、彼からバプテスマを受け、弟子になった。イエスもその一人であったが、他にもガリラヤ出身の者達がいた。アンデレとヨハネもまた、ガリラヤからヨハネを求めて来ていた。その弟子たちに、ヨハネは「私よりも優れた方がおられる」として、イエスを指し示した。「ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。」(ヨハネ1:35-37)。ここに、信仰者のあるべき姿がある。人間的に見れば、ヨハネはイエスにバプテスマを施した者であり、ある意味ではイエスの師であった。しかし、ヨハネはイエスこそ「神から遣わされたメシア」として、弟子たちに紹介した。師が弟子を「私よりも優れた方がおられる」として紹介したのだ。
・アンデレとヨハネはイエスの後をついていった。イエスは二人を見て「何を求めているのか」とお聞きになった。「何を求めているのか」、私たちはこの人生に何を求めているのだろうか。ある人は安定した職業や収入を求める。別の人は世に認められるための地位や力を求めるだろう。家族が平和に暮らすことこそ一番と考える人もいよう。しかし、それらの求めに共通しているものは、私たちの幸不幸を外部に依存していることだ。従って外部状況が変われば、その人の幸不幸も変動する。不況になれば収入は減るだろうし、家族の一人が重い病気になれば幸福は崩れるだろう。聖書は移ろい行く世に自分の幸福を賭けるなと教える。外部状況がどのように変化しても変わらないもの、本当の平安を求めよと教える。二人の弟子たちが求めたのも、この平安だった。
・二人は答えた「ラビ、何処に泊まっておられるのですか」。あなたのお話を聴きたいので、宿舎を教えてくださいと二人はたずねた。イエスは言われた「来なさい。そうすればわかる」。二人はイエスの宿舎に行き、その日はイエスのもとに泊まった。恐らくは、一晩中イエスの話を聞き、この人こそメシアだと確信した。
・アンデレは一緒にヨハネのところに来ていた兄弟シモンにイエスのことを話し、シモンを連れて行った。「ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って『私たちはメシアに出会った』と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。」(ヨハネ1:40-42)。アンデレは自分がイエスに出会って、この方こそメシア=キリストだと確信した時、すぐに兄弟シモンをイエスのもとに連れて行った。家族伝道は難しいと言われる。家族は私たちの日常を知っており、私たちが「救い主に出会って変えられた」と言ってもなかなか信じようとしない。しかし、ここにお手本がある。「来て、見なさい」、あなた自身が教会に来て、そこで語られる宣教の言葉を聞きなさい、そうすればわかる。伝道とはキリストを指すことである。バプテスマのヨハネがしたことはそうであり、アンデレがしたこともそうである。私たちは、自分の知っている人にキリストを示し、教会に連れて行けばよい。後は神が為される。
2.ピリポとナタナエルの召命
・ヨハネのところには、同じくガリラヤ出身のピリポもいた。イエスはピリポにも従いなさいと呼びかけられた。「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って『私に従いなさい』と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。」(ヨハネ1:43-44)。ピリポもイエスの言葉を聞いて彼を信じた。彼は共に来ていたナタナエルをイエスの許に誘った。「フィリポはナタナエルに出会って言った。『私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。』」。ナタナエルは信じない。ピリポは友に言った「来て見なさい」。ピリポに連れられてイエスにあったナタナエルも、イエスの言葉を自分で聞いて信じた。イエスが自分のことを知っておられたからだ。「イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。『見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。』ナタナエルが、『どうして私を知っておられるのですか』と言うと、イエスは答えて『私は、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た』と言われた。」(ヨハネ1:47-48)。
・人は仲介者を通じてイエスの許に連れて来られる。しかし、その人が信じるのは、自らがイエスに出会ったときだ。伝道の役割は「人を信じさせる」ことではなく、「来て見なさい」と人を招くことだ。
3.来て、見なさいということ
・今日の招詞にヨハネ4:42を選んだ。次のような言葉だ。「彼らは女に言った。『私たちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。私たちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。』」(ヨハネ4:42)。
・イエスはユダヤからガリラヤへと帰られる時にサマリヤを通られた。サマリヤの村でイエスは一人の女と出会われ、その女はイエスの話を聞いて。彼をキリストと信じ、村人を呼びに言った「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。私が行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。』人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。」(ヨハネ4:28-30)。ここにも同じ伝道の型がある。女は自分が信じたものを人々に告げに行き、言った「来て、見なさい」と。そして人々は来て、彼ら自身の耳でイエスの言葉を聞いて信じた。そして女に言った「私たちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。私たちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」。
・イエスの歩む道と私たちの歩む道が交差した時、出会いが生まれる。しかし、私たちが自分の道を歩み続けるならば、イエスとの出会いの時はまたイエスとの別離の時となる。イエスが私たちの人生を横切られてだけでは出会いは起こらない。出会いの起こる道は、私たちが自分の路線、自分の軌道を外れて「来て、見なさい」という招きに応えるときだ。そしてこの方こそキリストだと信じた時には、彼と共に歩む。
・信仰は理論ではなく、事実であり、キリストの出会いから生じる心の変化だ。この出会いを経験して人は救われ、生かされる。私たちは既にそれを経験したのだ。伝道は難しいものではない。「来て、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、あなた自身が判断してみなさい」という言葉を自分の親しい人にかけることだ。後は神が働かれる。『来て、見なさい』と隣人に語ること、それが弟子の為すべきことだ。ヨハネ1章の出来事はそれを私たちに教える。