江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年1月11日説教(ヨハネ1:29-34、世の罪を取り除く子羊)

投稿日:2004年1月11日 更新日:

1.イエスのバプテスマ

・今日、私たちはイエスのバプテスマについて学ぶ。私たちが「イエスこそ救い主」と信じて跪く時、私たちは「イエスの名によって」バプテスマを受ける。そのバプテスマをイエスご自身も受けられた。今日はこのイエスのバプテスマの記事を通して、私たちが信じてバプテスマを受けるという出来事がどのような意味を持っているのかを共に考えてみたい。

・4福音書はイエスの誕生を記した後、30歳までの出来事については何も語らない。そしてイエスが30歳の時に、非常に重要な出来事が起こった、それがイエスのバプテスマであると4福音書はこぞって言う。ルカ福音書によれば、イエスは30歳になられるまで故郷のガリラヤにおられた。そのころユダヤでは、バプテスマのヨハネが立ち、「メシアが来られる。最後の審判の時が迫っている。罪を悔い改めよ」と説き、そのしるしとして悔い改めのバプテスマを授け始めた。

・イエスはガリラヤでこのうわさを聞き、ヨハネからバプテスマを受けるために、ユダヤに来られた。恐らくは、ヨハネの悔い改め運動に共鳴され、今こそ世を立て直す時だと思われたのであろう。イエスが活動された時代は混乱の時であった。当時のユダヤはローマの支配下にあったが、ローマからの独立を求める反乱が各地に起こり、多くの人々の血が流されていた。神を信じぬ異邦人に支配されることは、神の選民と自負するユダヤ人には忍び難い屈辱であり、今こそイスラエルの神が立ち上がり、彼らを救うためにメシアをお送り下さるに違いないという期待が広がっていた。だから、人々はヨハネの「メシアの来臨が近づいている」との宣教の声に応えて、「ユダヤの全地方からヨハネのもとに来て、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた」(マルコ1:5)。

・イエスもヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。その間の事情をマルコ福音書から学んでみよう。今日の招詞として選んだマルコ1:9−11の箇所である。次のような記事だ。
「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』という声が、天から聞こえた。」

・イエスが水から上がられると、天が裂けて、神の霊が鳩のように下って来た。イエスの目にそれははっきり見えたし、イエスに洗礼を授けたヨハネの目にも見えた。ヨハネは次のように証しする「『私はこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、私は水でバプテスマを授けに来た。』そして・・・『私は“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。』」(ヨハネ1:31-32)。具体的に何が起こったのか、私たちは知らない。ただ、私たちにもわかることが二つある。それは、このバプテスマを通して、イエスはご自分が神から特別な使命を与えられて世に来られたことを知られたこと。そして、ヨハネにとっても、この体験こそがイエスこそメシア=神の子であることを確信する決定的な動機になったことだ。ヨハネは続ける「私はこの方を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるために私をお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によってバプテスマを授ける人である』と私に言われた。私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」(1:33-34)。ヨハネは自分自身の目でそのしるしを見た。だから、信じたのである。

2.世の罪を取り除く神の子羊

・ヨハネはイエスにバプテスマを施すことによって、イエスこそ神から遣わされたメシア、キリストであると信じた。彼はイエスを証しして言った「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(1:29)。子羊とは、罪の身代わりとして捧げられる犠牲の羊のことだ。エルサレム神殿では、毎朝毎晩子羊が犠牲として捧げられていた。イスラエル人がエジプトで奴隷として苦しめられていた時に、神はイスラエル人解放のために、エジプト人の初子を打たれた。その時、イスラエル人のみは、神の指示に従って家毎に子羊を屠り、その血を家の入り口に塗りつけていたので、死の手は彼らには及ばなかった。そして、エジプト人の大混乱の中で、イスラエル人たちはついにエジプト脱出に成功した。この時から、罪の赦しと神の救いを記念するために、神殿で毎日子羊を犠牲として捧げる事が始まった。子羊が人間の罪を背負って血を流すことによって、人の罪が赦されると彼らは信じたのであった。

・私たちも、エジプト王の過酷な支配にあえぎ、逃れるすべもなかった奴隷のイスラエル人と同じ状況にあると聖書は教える。私たちは罪の縄目の中にあり、自分の力ではその縄目からの脱出が出来ない状況にあるという。それは私たちの心の中を見れば判る。私たちが思うのはいつも自分のことであり、自分を基準にして毎日を生きている。誰かが私たちをけなした時、私たちはその人を憎む。誰かが私たちより良い生活をしていれば、私たちはそれを妬む。私たちが誰かを愛するのは自分が愛されるためであり、私たちが誰かに従うのは、それによって利益を得るためである。私たちの愛は見返りを求めている。パウロは言う「私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。・・・それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。・・・私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか。」(ローマ7:18-25)。この罪、聖書で言う原罪が私たちを縛って奴隷とし、私たちはその罪の結果としての死に直面している。この世の悲惨や災いは全て人の罪から来る。この罪こそがサタンであり、それが世を闇にしているのであって、この罪を取り除かない限り、救いはない。そして、この罪を取り除くために、イエスが来られたとヨハネはここで証をしている。

・イエスが十字架で死なれたことによって、この罪が取り除かれたというのが聖書の教えだ。ペテロは言う「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。この方は・・・ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(〓ペテロ2:21-24)。

・キリストの受けた傷によって私はいやされたことを告白することこそがバプテスマである。バプテスマを受ける者はまず水に沈められる。罪に覆われた古い自分に死ぬためである。そして、水から引き上げられる。新しい命に生きるためだ。その時、人と人を隔てる壁が取り払われる「キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エペソ2:14-16)。私たちはキリストを知る前は、敵意という隔ての壁を通して、人と接していた。しかし、今やキリストの十字架により、この壁は取り払われた。だから、「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:28)という平安のなかに導かれる。

・まだバプテスマを受けていない方には、バプテスマを受けるよう勧めたい。バプテスマは信仰の完成ではない。水のバプテスマを受けても、私たちが完全になるわけではないし、罪を犯さなくなるわけでもない。しかし、それは信仰の始まり、救いの第一歩なのだ。自分が罪人であり、救われなければ生きていけないと知るならば、それでバプテスマを受けるには十分だ。バプテスマを受けて、キリストに繋がる者となって欲しい。

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