1.くびきの預言
徳川家康は自分の生涯を振り返って「人の一生は、重荷を負うて、遠き道を行くがごとし」と言った。親鸞は人生を海に例えて「難度海」と言ったそうだ。人生は苦しみ悩みの波が絶えずやってくる海のようなもの、如何に生きようと苦悩からは離れきれないと家康も親鸞も思った。私たちもそうだと思う。人間にとって生きることは重荷を負って歩むことであり、生きている限り重荷から解放されることは無い。その時、人の前に二つの選択肢が置かれる。重荷を苦痛と思ってそれを避けようとするのか、重荷は当然として喜んで担うかの二つである。多くの人は目の前の重荷を避けようとして、より大きい重荷を負い込んでしまう。今日学ぶ、エレミヤ書28章に出てくるユダヤの民もそうであった。
・エレミヤ書28章の時代背景は、紀元前6世紀のバビロン捕囚である。前597年、アッシリアを滅ぼしたバビロン王ネブカドネザルは、勢いのままにパレスチナに侵攻し、エルサレムを占領した。ユダヤ王エホヤキンを始め、主だった人々はバビロンに捕虜として連れ去られ、ユダヤは新しい王ゼデキヤ王の下でバビロンの植民地となった。それから4年後、バビロン帝国で内紛が起こり、ネブカドネザルが失脚したとのうわさが流れてきた。このうわさが、占領されていた多くの国々にバビロン帝国への反乱を企てさせる。ユダヤもそうで、ゼデキヤ王は近隣諸国と計らってバビロンからの独立を画策した。
・その情勢の中で、エレミヤは木のくびきを首にはめて、ゼデキヤ王の前に出よと示された。エレミヤは預言した「首を差し出して、バビロンの王のくびきを負い、彼とその民に仕えよ。そうすれば命を保つことができる」(エレミヤ27:12-13)。神は、あなた方の罪を懲らしめるためにバビロンを鞭として用いられたのであるから、今はバビロンに抵抗するよりも、何故神があなた方を懲らしめようとされているかを考え、自分達の罪を悔い改めよとエレミヤは主の言葉を伝えた。しかし、王も民もエレミヤの預言に耳を貸さなかった。それは自分達の願いとは異なる預言だったからだ。
2.ハナンヤとの対決
・民が求めていたのは、バビロンからの独立、ユダヤの自由の回復であった。その民の声に応えて、ハナンヤがエレミヤの前に立った。彼は預言した「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私はバビロンの王のくびきを打ち砕く。二年のうちに、私はバビロンの王ネブカドネザルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる。また、バビロンへ連行されたユダの王、ヨヤキムの子エコンヤおよびバビロンへ行ったユダの捕囚の民をすべて、私はこの場所へ連れ帰る」(28:2-5)。
・ハナンヤが預言したことは「エルサレムに神殿がある限り、またダビデ王の血を継ぐ王がエルサレムにいる限り、エルサレムが滅ぼされることはない。神は近いうちに捕らえられた人たちを解放し、略奪された神殿の祭具も戻して下さる。神が共におられるから、安心してバビロンと戦え」ということだ。民が聞きたかったのはこの預言だった。
・それを聞いたエレミヤは「主がその通りしてくださるように」と応える。エレミヤも祖国の独立を願っていた。しかし、それが本当に神に御心なのか、エレミヤに示された御心は違う。ハナンヤは勝ち誇ってエレミヤの首からくびきを打ち砕いて言った「主はこう言われる。私はこのように、二年のうちに、あらゆる国々の首にはめられているバビロンの王ネブカドネザルの軛を打ち砕く」。エレミヤは一言も反論せずにそこを立ち去った。
・やがて主の言葉が再びエレミヤに臨んだ「行って、ハナンヤに言え。主はこう言われる。お前は木のくびきを打ち砕いたが、その代わりに、鉄のくびきを作った。・・・私は、これらの国すべての首に鉄のくびきをはめて、バビロンの王ネブカドネザルに仕えさせる。彼らはその奴隷となる」(28:13-14)。ハナンヤが伝えたのは主の言葉ではなく、民の願い、彼自身の願望だった。彼は神から言葉をいただいていないのに、神の言葉を偽って預言した。ハナンヤは神の手にかかって死んだ(28:17)
3.木に代えて、鉄のくびきが
・今日の招詞に哀歌3:28-33を選んだ。次のような言葉だ。「くびきを負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」。
・ゼデキヤ王はエレミヤの言葉に従わずに、バビロンに対する反乱を起こした。バビロン軍はエルサレムに攻め上り、エルサレムは1年半の篭城の後に陥落した(前587年)。王と子供達は捕らえら、王子達はゼデキヤの目の前で殺され、王は両目をえぐられて、青銅の足かせをはめて、バビロンに引いていかれた。こうしてユダヤの国は滅んだ(列王記25:5-7)。
・招詞として引用した哀歌はこの時の悲しみを歌ったものだ。神の都として栄えたエルサレムは、徹底的に破壊され、廃墟となった。王宮や神殿は焼かれ、反抗する者は処刑され、働き手は捕虜としてバビロンに連れ行かれた。都には女と子供と老人だけが残され、彼らは食べるものもなく、飢えで死んでいく。エレミヤが預言した通り、悔い改めれば木のくびきで済んだ罪が、あくまでも神に逆らったため、鉄のくびきに変えられてしまった。
・詩人は言う「主は容赦なく私たちを懲らしめられた。今、私たちの目には何の希望も見出せない。しかし、私たちは主が与えられたくびきを、今度は逃げることなく負おう。十分に懲らしめを味わおう。私たちは主に罪を犯したのだから、懲らしめられるのは当然だ」。しかし、詩人は絶望していない「今は何の光も見えないが、主は悔い改めた者を捨て置かれない。懲らしめても憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」と。
4.くびきを共に負ってくださる方
・この哀歌3:28-33は個人的にも忘れることの出来ない聖句だ。私は5年前に夜間神学校の学びを終えて牧師となったが、学びが不十分であったので、神学大学に入り直して勉強を続けることにした。同時に学校からの紹介で、ある伝道所の牧師も兼ねた。昼間は大学で学び、土日は伝道所で奉仕することになった。しかし、牧師と学生の兼職は難しく、次第に牧会が行き詰まり、何人かの人は、私が辞任しなければ自分達はこの教会から去ると言い始めた。牧師初年度に起こったこの出来事は自分の信仰を根底から揺さぶった。私はある人に「自分は何のために会社を辞めてまで牧師になったのか」と泣き言を言った。その人が与えてくれた言葉がこの哀歌3章である。「打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ」、牧師を批判する者がいればその批判を主からの懲らしめとして聞け。「人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」、あなたを苦しめるのが主の目的ではなく、あなたを牧師として育てるのが御心であることを覚えよ。この言葉をいただいて、私は牧師辞任を伝道所に申し出、残りの期間を神学生としての学びに集中した。3年前に神学大学を卒業し、この教会に赴任した。
・神はユダの民に向かって「生きよ」と言われ、「死んではならない」と言われた。生きることは、くびきを負って歩むことだ。エジプトとメソポタミヤという大国に挟まれた小国ユダはどちらかの支配に服する以外に生きる道がない。その現実を見つめて生きよ、空虚な独立を求めるな、それはより重いくびきを負うことだと言われたのだ。現実を直視する。出来ることと出来ないことを峻別する。私の場合もそうだ。牧師と学生の兼務が難しければ今は学ぶことに集中せよと主は言われた。
・バビロン捕囚とは歴史的に見れば、大国バビロンが小国ユダヤを征服し、その住民を捕虜として連れ去った出来事だ。しかし、信仰の目で見れば「神がバビロン王を用いてユダヤの民を懲らしめた」出来事だ。主語がバビロンである時、私たちは被害者であり、滅ぼした相手を憎むだけだ。主語が神になった時、私たちは出来事の当事者になり、それは私たちに変革を迫る。そして、どんなに行き詰った時にも、そこに道は開ける、何故ならば「人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」からだ。この主の言葉に耳を傾けた時、私たちのくびきは重荷から別のものに変わる。イエスは言われたのもそうだ「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)。くびきは変わらず同じ重さを持つ。しかし、イエスが共に担ってくださるから、軽くなるのだ。クリスチャンになれば病気が良くなるとか、災いが来ないということはない。いくら信仰を持っても、病気になるときにはなる。しかし、病気の意味が変わってくる。病気が呪いから祝福になっていくのだ。