江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年7月25日説教(使徒行伝27:13-38、嵐の中で神の声を聞く)

投稿日:2004年7月25日 更新日:

1.アメイジング・グレイス

・今日、私たちは讃美歌『Amazing Grace』を歌った。Amazing Graceはジョン・ニュートンによって作られた。ジョン・ニュートンは18世紀のイギリスに生きた人であった。父が地中海航路の船長だったので、彼も11歳から船に乗るようになり、何度も船を乗り換えているうちに、やがて黒人奴隷を運ぶ船長となった。

・1748年、彼の船がアフリカからアメリカに向かっていた時、船は大嵐に遭遇した。もう助かるまいと観念する程の命の危険にさらされた時、ジョンは初めて「神様、助けてください。」と叫んだ。この嵐もおさまった時、ジョンは母が残してくれた形見の聖書を取り出して読み始めた。人間の力を超える神の存在を、嵐を通して知ったからだ。そして神は、恐ろしい罪にまみれているジョンの姿を、はっきりと示された。奴隷商人として生きてきたこれまでの人生を彼は悔いた。「神様、こんな私でも救われますか」と彼は思わずひざまずいていた。「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」。その声を聞いて、ジョンはイエス・キリストを自分の救い主と信じ、まったく新しい人に変えられた。「こんな愚かな、どうしようもない者をも神は救って下さった」。詩の内容は彼の悔い改めと救いへの感謝に満ちている。1番の歌詞はその彼の悔い改めの様を歌っている。

Amazing grace! how sweet the sound      
That saved a wretch like me      
once was lost, but now am found     
Was blind, but now I see.  

・ジョン・ニュートンが使徒行伝27章を読んだ時には、彼の船が難破し、死の際から救っていただいたその時のことを思い出して、涙なしには読み進むことが出来なかったであろう。彼はパウロと同じ経験をしたのだ。今日、私たちはその使徒行伝27章を共に読む。


2.難破船でのパウロ

・使徒行伝27章は、ローマに向かうパウロの船が嵐に遭い、その中でパウロだけが、この嵐では死なないことを確信して人々を励まし、乗船していた人々全員が助けられたという物語である。パウロはエルサレムで騒乱の罪によりローマ官憲に捕縛されたが、皇帝に上訴したため、ローマで裁判を受けることになった。彼は他の多くの囚人達と一緒に、ローマ軍に託されて船に乗った。船はパレスチナのカイザリアを出て、向かい風の中を難航しながらも、10月ごろにクレタ島についた。そこまでは陸地沿いの航路であったため、比較的に容易であったが、クレタからローマに向かうためにはアドリア海を越えなければいけない。秋から冬にかけてのアドリア海は北東からの風が強く、パウロは冬の間はクレタに逗留することを主張するが、誰も囚人の意見など聞かず、船はクレタを出る。

・最初は南風が吹いて来たので、船はクレタ島の岸に沿って進むことが出来た。ところが、まもなく「エウラキオン」(北東風)と呼ばれる暴風に襲われてしまい、船は操縦の自由を失い、そのまま流されてしまった。当時の船は風を頼りに航行するため、強い逆風の中では航行することが出来ない。風雨のために、船には水がたまり、沈没を避けるために、二日目には積み荷を捨て、三日目には船具までも捨てることになった。積み荷どころか、船にとって大事な船具さえをも捨てるほどの嵐に巻き込まれたのだ。「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていた」(27:20)と使徒行伝は記述する。当時の航海術では、太陽と星から自分の位置を確認していたから、肝心の太陽も星も見えなくなってしまうということは、自分たちがどこにいるのか確認するすべがなくなってしまったことを意味する。全く望みが消えようとしている、もう死ぬしかないと誰もが思うような状況だった。

・そんな時にパウロがみんなに語りかける「船は失うが誰ひとりとして命を失う者はない」(27:22)。「私は祈りの時に神の声を聞いた『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない』」。私はこの嵐では死なない。私たちは必ずどこかの島に打ち上げられる。そういってみんなを励ました。ローマに行ってイエス・キリストを伝えることは神の変わらない計画(使徒行伝23:11)であることをパウロは確信している。何物も神のご計画を変えることは出来ない。そのパウロの信仰が人々を力づけた。

・14日目の夜、船は陸地に近づいた。それを知って、船員たちは自分だけ助かろうとして逃げ出そうとするが、パウロの機転で食い止められる。翌朝、パウロはみんなで食事をしようと言い出した。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」(27:33-34)。神はあなた方を死なせはしない。そのためには、あなた方は、今は食事して体力をつけることが必要だとパウロは言った。パウロは一同の前でパンをとり感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。風が止んで平穏になったから食事をしたのではない。嵐の中での食事だった。神が共にいますことが明らかにされる時、依然として嵐は続いていても、私たちの心は平安を取り戻す。何故ならば、嵐さえも神の支配下にある事を知るからだ。元気を取り戻した人々は、やがて砂浜のある入り江が見えてきたので、その砂浜に船を突っ込ませる方法で船を座礁させ、全員の命が助かった。

3.神の経綸

・今日の招詞に詩篇121:1−2を選んだ。次のような言葉だ。「目を上げて、私は山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか。私の助けは来る、天地を造られた主のもとから」。

・パウロの乗った船は沈没寸前だった。危機の中で、船の中の指導力は逆転する。恐れ戸惑う船長ではなく、信仰の確信に立つ囚人のパウロに、人々は信頼を寄せるようになっていく。ここに今日のクリスチャンの役割があるように思う。神を信じるから、嵐を免れるということではない。信仰者も、同じように嵐に遭う。逆風に翻弄され、不安に陥り、恐れを覚える。望みが絶え果てるような状況に追い込まれることもある。しかし、神を信じる者は、そのような嵐のただ中で、なおも「恐れるな」と語りかける神の声を聞くことができる。そのようにして神によって立たせていただいた者は、同じように嵐に悩まされている者たちに向かって「元気を出しなさい」と語りかけることができる。太陽も星も見えず、人間的な知恵によっては自分がどこにおり、どこへ行こうとしているかさえ分からないような嵐の中にあっても、神からの声を聞き、行くべき道を見出す。神を信じているからこそ、私たちは絶望しない。絶望しない者だけが、希望を無くした人々を励ますことが出来る。それが、神から私たちに託された、大切な使命なのだ。

・風に吹かれ、波にもてあそばれつつ、パウロはローマへと近づいていく。嵐の中で希望もなくすようなこともある。けれどもそんな時でも神が支え、導いてくれていることを知る、それが神を信じるということだ。パウロと同じ信仰を与えられたジョン・ニュートンのAmazing Graceの2番、3番にその信仰が表されている。

'Twas grace that taught my heart to fear  
And grace my fears relieved
How precious did that grace appear   
The hour I first believed  

Through many dangers, toils, and snares   
I have already come
This grace hath brought me safe thus far   
And grace will lead me home

私たちの時代は、科学技術の進歩のために、死ぬほどの危険に直面し「神様、助けてください」と祈ることは少なくなった。だから、神も遠くなった。しかし、死は今でも私たちと共にある。その死は病院や老人ホーム等に隠されているから、私たちに見えないだけなのだ。本質部分はパウロの時代とも、ニュートンの時代とも何も変わっていない。死は隠されているが、厳然とそこにある。「Was blind, but now I see」、それを見つめて生きることが必要ではないかと思う。

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