江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年5月23日説教(使徒行伝1:1-11、地を見つめて生きる)

投稿日:2004年5月23日 更新日:

1.イエスの昇天

・使徒行伝によれば、イエスは復活後40日間弟子たちとともにおられ、それから昇天された。イースターから40日が過ぎた今日は、イエスの昇天記念日である。イエスの昇天された後、弟子たちがどのように行動していったのかを、使徒行伝から学んで見たい。イエスは生前に言われた「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)。イエスが十字架に死なれたとき、弟子たちは散らされたが、やがて復活のイエスに出会い、再び集められた。そして宣教を始めた。弟子たちの宣教によって福音は広がって行くが、決して順調に伝道が進んだのではない。そこには、いろいろの問題があった。

・使徒行伝はイエスの昇天からその記述を始める。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」(使徒行伝1:3)。復活後40日間イエスは弟子たちとともにおられ、神の国について話されたとある。

・イエスは生前も繰り返し、神の国について弟子たちに話された。神の国は、この世の国のように、力ある者が弱い者を支配する国ではなく、お互いに仕えあう国であることを何度も説明された。そのために、弟子の足まで洗われた。しかし、弟子たちは理解しない。イエスを裏切ったり、仲間同士で争いあったりということが繰り返された。だからこそイエスは復活後、繰り返し弟子たちに現れ、教えられた。しかし、使徒行伝の記事が示すことは、それでも弟子たちはまだ理解出来なかったということだ。イエスが「あなた方はまもなく聖霊を受ける」と弟子たちに言われた時、弟子たちは聞き直す。「主よ、イスラエルのために国を立て直して下さるのはこの時ですか」(1:6)。

・彼らは依然としてこの世の国、イスラエルの再興、自分達の栄光を求めていた。死を超えて復活されたイエスの力を見て、彼らは今こそそれが可能になると期待した。しかし、イエスは答えられた「「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」(1:7-8)。「今、あなた方がなすべきことは、あなた方が見たこと聞いたことを、ユダヤはもちろん、サマリアや異邦の人々に伝えていくことだ」とイエスは言われた。サマリア人はユダヤ人と敵対関係にあった。異邦人はユダヤ人にとっては汚れた存在であった。イエスは「あなた方が嫌っているサマリア人や異邦人に福音を伝えるのがあなた方の使命だ」と弟子たちに言われた。自分の嫌いな人に福音を伝えよ、それがイエスの遺言だった。私たちにとって、この言葉は何を意味するのか。もし教会の中に、自分とはあわない、ないしは嫌いな人がいれば、その人のために祈れ、そうすれば、そのことを通して神の国は来ると言われているのではないか。

2.天ではなく、地を見つめなさい。

・そしてイエスは昇天された。弟子たちはイエスがいないと不安だった。これまでは、全てイエスの指示に従ってきた。しかし、これからは自分達でどうするかを決めねばならない。彼らは不安にかられ、イエスの姿が雲のかなたに隠れてしまった後も、いつまでも天を見つめ続けていた。しかし、イエスの昇天は弟子たちの自立を促すためのものでもあった。だから、いつまでも天を見つめ続ける弟子たちに、天からの声があった「あなた方は何故天を見上げて立っているのか。地を見つめ、自分たちのなすべきことを始めなさい」。この声に促されて、弟子たちはオリーブ山を降りて、エルサレムに戻った。

・地を見つめて生きるとは、現実を見つめ、今何をなすべきかを知ることだ。自分達はまだ、サマリヤ人や異邦人に伝道する準備は出来ていない。否、同胞のユダヤ人にさえ、伝えることが出来ない事実を知ることだった。弟子たちが始めたことは、エルサレムに戻り、仲間と心を合わせて祈ることだった。弟子たちは、共に集まって祈り、イエスが約束された聖霊の降臨を待った。

・私たちも今日、同じ問いを天から与えられている。私たちがどうすることが「地を見つめて生きることなのか」、「今何をなすべきか」を共に祈り求めよといわれている。私たちは今年の教会総会で聖句としてローマ書12:15を選んだ「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。今、私たちの教会に最も必要なものが、この「共に」という姿勢だ。私たちはそれぞれ信仰を与えられているが、一人一人の信仰は、それぞれの歴史を踏まえて異なる。今まではその相違点が表に出て、「あなたは私とは違う」ということが多く、教会としての一致が少なかったように思う。しかし、キリストを主と仰ぎ、その後に従っていくという点では一致している。信仰の友として、共に喜び、共に泣き、共に祈る、そのような教会を形成したい。その願いがこの主題聖句の選定に込められている。

・現実の教会ではいろいろなものが足らない。私たちの教会の場合、礼拝に集う人は20名に満たず、教会会計は赤字である。建築借入金の返済も重い。信徒訓練のプログラムも出来ていない。子供たちのための教会学校教師もいない。壮年会も婦人会も十分な活動は出来ていない。しかし、最も足らないのは、そのようなものでなく、教会の一致、霊的な一致である。「共に支え、共に祈る」という教会標語には、私たちが今何をなすべきかの祈りが込められている。

3.キリストの良い香りとして生きる

・今日の招詞として、第二コリント2:14-15を選んだ。次のような言葉だ「神に感謝します。神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、私たちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、私たちはキリストによって神に献げられる良い香りです。」

・コリント教会はパウロの開拓伝道によって設立されたが、パウロが他の地に行くと、次第にパウロの教えから離れていった。教会内には主導権をめぐっての争いが起こり、性的問題が引き起こす道徳的混乱があり、霊的熱狂主義の人々が入ってきて、教会をかき回していた。教会員の中には、牧会者であるパウロに対して、「パウロはキリストを伝えるのにふさわしくない」とか、「パウロは福音を利用して私腹を肥やしている」とかの悪口を言う人も出てきた。パウロはコリントに再三行き、また手紙を何通も送ったが、その心は通じず、教会はパウロに対する誤解で満ちていた。そのコリント教会に最後に送った手紙が第二コリント書だ。その中でパウロは教会の人々に言う「あなた方は、キリストの勝利の凱旋行進において、香りを振りまく祭司なのだ。キリストはあなた方の生き方を通して、人々に伝えられていくのだ」と説く。

・現実の教会には誤解・争い・不和が絶えない。コリント教会はキリストの体と呼ばれるには程遠い問題をはらんだ教会であった。私たちの教会もそうかもしれない。パウロは、このあまりにも人間的な教会の現実の中で、一人の人間として悩み、悲しみ、怒る。しかし、彼は教会に対する責任を放棄しない。何故ならば、教会は福音の本質に関わる出来事であり、教会を通してこそ福音は伝えられていくからだ。教会は神のものであり、教会員はキリストの香りなのだ。だから、そこにどのような絶望的な現実があってもくじけず、教会のために働き続けた。「天を眺めるのではなく、地を見つめる」とは、このような生き方だと思う。教会の現実をありのまま見つめ、今何をなすべきかを神に祈っていく。神の国は天を見つめていれば来るものではなく、私たちの働きを通してくるのだ。今は議論や批判を止め、教会のために共に祈る時だと思う。嫌いな人がいればその人のために祈る。居心地が悪ければ、どうすれば良いかを祈る。私たちは、キリストの香りとして、この教会に派遣されているのだ。福音は私たちを通して、伝えられていくのだ。

・ラインホルド・ニーバーというアメリカの神学者がいるが、彼はこのように祈った。「神よ、変えることのできない事柄については冷静に受け入れる恵みを、変えるべき事柄については変える勇気を、そして、それら二つを見分ける知恵をわれらに与えたまえ。」。地を見つめて、教会の現実を見つめて祈ろう。

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