江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年4月9日受難日礼拝・説教(ヨハネ19:28-37、成し遂げられた)

投稿日:2004年4月9日 更新日:

1.イエスの死

・イエスが十字架につけられたのは、金曜日の朝9時であった。十字架刑は両手両足を木の杭に釘付けにして、十字架を立てる。そのため、釘付けられた両手両足に全体重がかかり、釘を打ち込まれた傷口は燃えるような熱を生じ、頭は充血し、数日間生死をさまよった後,衰弱死する。十字架刑はローマ帝国が奴隷にだけ課した最も残虐な刑罰だった。十字架につけられた罪人は、出血と熱と疲労で激しい渇きを覚える。イエスは十字架につけられて6時間後、「渇く」と言われた。兵士たちは、酸いぶどう酒を海綿に含ませ、葦の棒の先につけて、イエスに飲ませた。イエスは、このぶどう酒を飲まれると「全ては終わった」と言われ、息を引き取られた。

・イエスが十字架で死なれたのは、金曜日の午後3時ごろであった。数時間すれば、日が暮れ、安息日に入る。その日は過越祭りの前日であり、特別の安息日であった。ユダヤ人にとって、十字架で殺された者は神に呪われた者であり、汚れた死体は安息日が始まる前に片付ける必要があった。そのため、ユダヤ人たちは総督ピラトに、「足の骨を折って、罪人たちを十字架から取り降ろすように」求めた。すねの骨を折れば、足に力が入らないから、全身の重さが手にかかり、血液が逆流し、心臓に圧力がかかってすぐに死ぬ。

・兵士たちはイエスと共に十字架につけられた二人の罪人のすねの骨を大きな槌で打って、死なせた。しかし、イエスは既に死んでおられたので、足の骨を折ることをせず、兵士の一人がその死を確認するために、槍でイエスのわき腹を刺した。すると、その傷口から血と水が流れ出た。こうして、イエスは死なれ、遺体は降ろされて、埋葬された。その一部始終を弟子ヨハネが目撃し、それを自ら証言としてまとめた。それがヨハネ福音書の伝えるイエスの死である。



2.イエスの十字架の言葉

・イエスは十字架上で7つの言葉を残されたと福音書は伝える。最初の言葉は、自分を十字架につけるローマ兵のための赦しの言葉だ。イエスは彼らのために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈られた。次の言葉は、共に十字架につけられた罪人のためのとりなしの言葉だ。悔い改めた罪人の一人にイエスは言われた「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)。そこにはイエスの母もいた。イエスは母に付き添うヨハネに「見なさい。あなたの母です」(ヨハネ19:27)と言われ、母の今後を委ねられた。最初にイエスは、自分を殺そうとする兵士のために赦しを求め、次に共に十字架につけられた罪人のために執り成された。そして、歎く母親の今後を弟子に頼まれた。この前半の三つの言葉は、正に神の子としての言葉だ。イエスは十字架で苦しまれながらも、他者のために祈られた。

・しかし、今日、私たちが注目したいのは、この前半の三つの言葉ではなく、それに続く後半の四つの言葉だ。十字架につけられて6時間が経過し、苦しみが極限に達した時、イエスは父に向かって叫ばれた「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27:46)と。「わが神、わが神、何故、私を見捨てられたのですか」と言う意味の言葉である。「この苦しみを早く取り除いて下さい」とイエスはあえぎながら、神に求められた。そして、激しい苦痛と多量の出血のために、イエスは激しい渇きを覚えられた。そして叫ばれた「苦しい、渇く」と。酸いぶどう酒が与えられ、しばしの休息の時が与えられた。そして最後の時が来た。イエスは「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)とつぶやかれ、「父よ、私の霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と言って息を引き取られた。

・イエスはこの世的には惨めな犯罪人として、そして宗教的には神から呪われた者として、その生涯を終えられた。弟子たちも、十字架上の無力なイエスに直面して、全ての希望を失くし、散っていった。その死の本当の意味は誰の目からも隠されていた。しかし、私たちは、残された言葉からイエスが、その十字架の死を意味あるものと信じて死んでいかれたことを知ることが出来る。「成し遂げられた」、この言葉はギリシャ語では「テテレスタイ」という言葉であるが、「完了した、完成した」と言う意味である。やるべきことはやった、全ての務めは為された、後は父にお任せするとイエスは言われたのだ。イエスは、自分がこの十字架で死ぬことこそ、神の御心であり、今その御心が満たされたことを確信された。だから、「父よ、私の霊を御手にゆだねます」と言って死ぬことが出来たのである。

・人間的にみれば、その死は終わりだった。しかし、イエスは自分の死を神に委ねられた。この全面的な委ねから、神の業が始まった。

3.委ねとしての死

・今日の招詞に、イザヤ書49:4を選んだ。次のような言葉だ。「私は思った。私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である。」

・イエスの十字架ほど悲惨な死の姿はない。そこには、罪人として無残な死があるだけだ。全ての人が「これで終わりだ」と思った。しかし、イエスは「父の御心は成し遂げられた」と言われ、「私の霊をあなたに委ねます」と言って、死なれた。神はこの委ねを引き取られ、イエスを復活させられた。この復活を通して、弟子たちはイエスが神の子であることを知り、その神の子が何故十字架に死なれたのかを知った。だから、散らされた弟子たちは再び集まり「十字架で死なれたナザレのイエスこそ、私たちの救い主だ」と言って、宣教を始めた。

・パウロは言う「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」(1コリント1:18)。パウロは十字架につけられたイエスが、ユダヤ人には「つまずき」であり、ギリシャ人には「愚かなもの」であることを承知の上で、この十字架につけられたキリストを伝えた。十字架という全くの絶望の中にこそ、復活という神の力が現れたことを、自分の目で見たからである。

・人生の最大問題は死だ。死が全ての終わりと考える人は、今を楽しむしかなく、その場合、人を押しのけてでも、自分の現在の生を楽しもうとする。死が全ての終わりだと考える人が多い社会は弱肉強食の社会になり、強い者が勝ち、弱い者は破れ、その破れが人生の苦しみとして現れる。しかし、強い者もやがて破れるから、そこには平安がない。しかし、死が終わりではなく、そこから新しい生が生まれることを知る者は、どのような生を生き、どのような死を迎えようと、希望は揺るがない。「私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした」と思えるときにも、「私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」と言いきることが出来る。イエスの十字架に絶望した弟子たちが、復活のイエスに出会って教えられたのは、そのことだ。十字架の絶望があったからこそ、復活の喜びがあったのだ。最も暗い十字架が、復活の朝の始まりであった。イエスの生涯の終わりが、私たちの救いの始まりとなる時が過ぎた。十字架こそが、私たちの信仰の原点であることを、今日の受難日に覚えたい。

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