江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年6月6日説教(ヨハネ14:8-18、聖霊に導かれる人生)

投稿日:2004年6月6日 更新日:

1.イエスの訣別説教

・ペンテコステの日にペテロは人々に説教した「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒行伝2:38)。この日に3千人がペテロの言葉を受入れ、バプテスマを受け、ここに教会が成立した。ペテロが言ったことは「バプテスマを受ければ聖霊が与えられる」と言うことだ。聖霊とは何か、この聖霊が私たちの生き方にどう関係してくるのか。聖霊降臨節第二主日の今日は、ヨハネ14章を通して、このことを学んでみたい。

・ヨハネ14章は、死を前にしたイエスの訣別説教である。最後の晩餐の時、ユダはイエスを裏切るために既に部屋を出ている。やがてイエスを逮捕するために兵士達がここに来るだろう。イエスは死を覚悟しておられる。「先生がいなくなれば私たちはどうすればよいのか」、弟子たちの間に動揺が広がった。その弟子たちにイエスは言われた「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい」(ヨハネ14:1)。イエスにとって『死ぬ』とは、父の家に戻ることであり、悲しむ出来事ではない。

・しかし、弟子たちは不安だ。懐疑家のトマスは訊ねた「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」(14:5)。それに対して、イエスは言われた「私が道である。人は私を通って父なる神の御許に行くのだ」。子において父が啓示される。私たちはイエスの言葉と業を通して、神を知る。しかし、人はそれに満足できない、見えないものは信じられない、この目で神を見ないと満足できないからだ。だからピリポは尋ねる。「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」(14:8)。「神がいるならば、この目で見せてほしい。そうすれば信じよう」と多くの人は言う。しかし、彼らは見ても信じないだろう。それは十字架のイエスをののしった祭司長たちが信じなかったのと同じだ。祭司長たちは言った「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」(マタイ27:42)。もし、イエスが十字架から降りられても、彼らはイエスを幽霊のように見るだけで、神の子とは信じないだろう。イエス神の子であるしるしは十字架と復活を通して、すでに与えられている。それを信じない者は神を見ても信じない。

・イエスは弟子たちに言われた「私があなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。私の内におられる父が、その業を行っておられるのである。私が父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい」(14:10-11)。そのしるしとして、「私を信じる者は、私が行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。私が父のもとへ行くからである」とイエスは言われた。

・弟子たちは、この時はイエスの言葉の意味がわからなかった。しかし、後になってわかった。ペンテコステの日に、ペテロの言葉を聞いて3千人の人がバプテスマを受けた。イエスが生涯をかけて伝道されても、最後に残った弟子の数は120人(使徒行伝1:15)であったから、弟子たちの宣教の成果はイエスを大きく上回った。イエス在世当時、イエスの名はパレスチナの狭い範囲でしか知られていなかったが、ペテロやパウロによってイエスの名は当時の全世界、ギリシャ・ローマ世界にまで広まった。弟子たちは大きな業をすることが出来た。それは何故か、弟子たちがイエスよりも偉大であったからか、違う。イエスが天に昇り、さらに聖霊として再び地に降りて下さり、弟子たちの業を助けられたからだと聖書は言う。聖霊降臨とは、実にキリストの霊が弟子たちの中に宿り、力を与えた、キリスト再臨の出来事であったのだ。

2.聖霊が降る

・弟子たちの伝道の業を記す使徒行伝は言う「これはイエスの弟子たちが行った記録ではなく、聖霊が行われた記録である」と。故に、人は使徒行伝を聖霊行伝と呼ぶ。イエスの力が働いた故に出来た業である。故に弟子たちはイエスの名により祈る。それが13節−14節の言葉だ「私の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。私の名によって何かを願うならば、私がかなえてあげよう」。祈りなくして、私たちは何事もなしえない。私たちがキリストの名によって祈る時、その祈りは聞かれる。しかし、その時、私たちは敵が滅ぶようには祈れない。自分だけが富むようには祈れない。だから、聞かれない祈りもある。ここで言われているのは、御心に沿う祈りは全て聞かれると言うことだ。

・御心に沿う祈りは、何でもかなえられる。イエスが地を去り父のもとに行くことによって、父なる神は真理の霊である弁護者を送って下さるからだ(14:16−17)とヨハネは言う。この弁護者(ギリシャ語=パラクレイトス)こそが、聖霊となられたキリストの霊である。パラ=傍らに、カレオー=呼び出す、傍らに呼び出される者、法廷で被告の傍らに立ち、被告のために弁護する者、それが聖霊だ。この聖霊を通して、人は外からではなく、内側から何が真理であり、何が今なすべきことかを教えられる。キリストは聖霊となって私たちのところに戻って下さったのだ。それを証しする言葉が18節の言葉だ「私は、あなたがたを孤児にはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」。この、戻ってくるという約束がペンテコステの日に果たされたのだ。

3.聖霊に導かれて生きる

・今日の招詞に詩篇37:23−24を選んだ。次のような言葉だ。「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる」。キリストを信じる人は、聖霊に導かれて生きる。その時、その人の一歩一歩の歩みは神により守られ、祝福される。

・そのような生き方をされた一人が、阿南慈子さんではないかと思う。阿南さんは1954年京都に生まれ、カトリックの幼児洗礼を受けられ、26歳の時に結婚、二人の子に恵まれたが、31歳の時に難病と言われる多発性硬化症を発病して寝たきりになり、33歳の時には両眼を失明された。4年前、2000年の秋に46歳の若さで逝去されたが、生前に何冊かの本を残された。その1冊が「神様への手紙」(1997年、PHP研究所)と言う本だ。その中で彼女はこう記す「人は普段日常の用事に振り回され、自分自身を客観的に見直したり、これからどう生きていきたいかなど思うことはあまりない。そして時間はどんどん過ぎていき、ある日、突然の終わりを迎えてしまう事だってある。『それで良いのか』と問われれば、良いわけはないとわかっていても、つい生きているのが当たり前で深くは考えない。それが大きな病気をしたり、家族を失ったり、仕事に失敗したり、いわゆる挫折と思われる目に遭った時、人は自分を静かに振り返ることになる」。

・彼女は続ける「・・・これは心理学では『内観』と呼ぶらしい。この内観の時は人間の手にしうる最高の価値ある学びの時間だと思う。神様が与えてくださった、深い学びの時、豊かな恵みの時。私もそうだった。家族に守られた平穏な子供時代、順調を絵に描いたような新婚時代。それが31歳で突然難病になり、障害者となった。それまでの私は、何でも自分で出来ると思っていた。人の助けなど受けなくとも、立派に生きていけるつもりでいた。・・・その私が、足が動かなくなり、両目が見えなくなる。両手も動かなくなり、寝たきりとなった。そして今では、人工呼吸器の助けを借りている。何から何まで、人の助けを借りなければ生きていくことさえ出来ない自分。ああ、なんて思い上がっていたのだろう。体が自由な時も、実は今と全く同じで、本当は神と人との助けや支え、また赦しと愛を受けて、それでこそ生きてこられたのだと初めて知った。生きて来たのではなく、生かされていた事に気づき、これからは、もっともっと謙虚になり、神と人とに感謝しながら歩む日々でありたいと心から願う今の私なのだ」。

・彼女はこの詩篇の言葉を生きている。「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる」ことを信じる者とされたことを恵みとして受取っている。キリストが私たちの心の中に住まれる時、私たちの人生は根底から変わる。聖霊に導かれる人生とはそのような人生なのだ。だからペテロは勧める「バプテスマを受けなさい。そして聖霊の賜物をいただきなさい」と。

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