江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年6月20日説教(ヨハネ3:22-36、人の栄光か、神の栄光か)

投稿日:2004年6月20日 更新日:

1.人の栄光を求めるヨハネの弟子たち

・イエスはエルサレムを離れて、ヨルダン川のほとりに行かれ、そこで人々に教え、悔い改めた者にバプテスマを施されていた。大勢の人々がイエスのもとに集まり、その数は、前からヨルダン川のほとりでバプテスマを施していたヨハネを大きく超えるようになった。その時、ヨハネの弟子たちとイエスの弟子たちの間で清めのことで論争が起きた。恐らくは、ヨハネのバプテスマとイエスのバプテスマのどちらが、力があるのかについて、争いが起きたのであろう。ヨハネの弟子たちは、師に訴えた。「先生、あなたの弟子であったイエスが人気を集め、みながそちらに行って、こちらには来ません。これは放っては置けません。何とかして下さい」。

・それに対して、バプテスマのヨハネは答えた「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」(ヨハネ3:27)。イエスに多くの人が集まるとしたら、それは神の御心だ。私たちは人の栄光を求めて宣教しているのではなく、神の栄光を求めているはずではないか。あの方の隆盛を喜ぼうではないか。今日は、このヨハネの言葉を中心に、人が自分の栄光を求める時と、自分ではなく神の栄光を求める時に、その生き方にどのような違いが生じるのかを共に学んでみたい。

・バプテスマのヨハネは、イエスに先立って、人々に「悔い改め」を呼びかけ、悔い改めた者にバプテスマを施していた。その評判を聞いて、イエスは故郷ナザレを出て、ヨハネのもとに行き、ヨハネからバプテスマを受けられた。やがて、イエスは何人かの従う者を連れて独立され、あたらな宣教を開始された。その意味ではイエスはヨハネの弟子であったのである。やがて、イエスの力ある業と言葉に魅了されて、多くの民衆はイエスのところに集まり、ヨハネのもとに来る人々は少なくなった。それで、ヨハネの弟子たちは怒ったのである「ヨハネ先生こそ最初にこの運動を始められた方であり、イエスはその弟子ではないか。けしからん」。彼らの感情の中にあったのは「妬み」である。世の人々はみんな自分が主役を演じることを望み、脇役であることに甘んじようとしない。しかし、みんなが主役になろうとするから、そこに争いが起きる。私たちもよく言う「私がこんなに頑張ったのに、誰も評価してくれない」、「私のほうが頑張ったのに」等々。ヨハネの弟子が持った感情は、私たちも持っている感情である。ヨハネの弟子たちは、人の栄光を求めたのだ。

2.神の栄光を求めるヨハネ

・それに対して、ヨハネは言った「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」。世の人は自分で努力さえすれば、あるいは多くの人の力を結集しさえすれば、どんな大事業でも出来ないことはないと思っている。目的を達成できるかどうか、競争に打ち勝つことが出来るかどうかは、ひとえに自分の努力と客観情勢如何に関わっていると思っている。だから、自分が負けた時は、相手が悪いのであり、勝った人を恨んだり、妬んだりする。しかし、ヨハネは違った。全ては神の支配下にあり、たとえ私たちの努力により、何事かをなしえたとしても、それは神がお与えになった恵みと信じている。この恵みが背後になかったら、自分の努力だけでは何も出来なかったと知っている。信仰者とは人間の限界を認め、その限界を超えるものを支配される神の前にひれ伏す者だ。ヨハネの言葉には、この信仰が脈打っている。だから彼は言う「あの方は栄え、私は衰える」(3:30)。

・ヨハネは言う「自分は花婿ではなく、花婿の介添え人だ。介添え人は花婿が到着すればその役割を終える」。芝居の脚本を書く人は、劇が始まってしまえば、後は監督と俳優に任せて、口を出さない。もし口を出せば、芝居がめちゃめちゃになってしまうことを知っているからだ。「自分はメシアではない。メシアはあの方だ」とヨハネはイエスを指し示す。彼が求めているのは、神の栄光であり、自分の栄光ではない。だから、彼はイエスの隆盛を喜んだ。

・「あの方は栄え、私は衰える」という言葉は、重い言葉だ。教会同士の中にも、競争があり、妬みがある。アメリカでは牧師の地位は、その教会の会員数と献金額で測られる傾向がある。教会の成長は、会員数と献金額の伸びで示される。人間はどうしても、見えるもので判断する。教会の場合、見える物差しは「教勢」だ。しかし、ヨハネ福音書が教えることは、それはまちがっているということだ。人は、あるいは教会はそれぞれの役割を神から与えられている。ある人は10タラントの役割を持ち、別の人は5タラントの役割を持つ。タラント=賜物は異なっても、それぞれ神から与えられた大事な役割だ。その役割を誠実に果たせば良い。私もかっては、大きい教会を見て、うらやましいと思ったことがある。篠崎もそうなれば良いと思った。でも、最近変えられてきた。篠崎には篠崎にしか出来ない役割が与えられている。その役割を見出し、果たして行けば良い。

3.人の栄光を求める生き方と神の栄光を求める生き方

・31節からはこのヨハネの言葉を受けた福音書記者の信仰告白が始まる。「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。」(3:31)。天から来た者だけが天の国について語ることが出来る。ヨハネといえども地から出た者であるから地の事しか語れない。ヨハネはその限界を認めて、「見よ、この人だ。私ではない」と言った。ヨハネが証言したとおり、神はイエスを通して、自らを啓示されているのだと福音書記者は述べる。だから、「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」(3:36)。もしあなたが御子を信じないならば、命にあずかることが出来ないばかりか、既に裁かれている。

・今、新聞紙上を騒がせている「三菱自動車欠陥隠し」問題を見て、正にこの言葉が実現しているのを感じる。三菱自動車はそのトラックやバスに多くの欠陥があるにも関わらず、それを隠していた。そして、山口と横浜で2件の死亡事故が起こり、隠しきれなくなると、驚くほどの多くの欠陥が是正されずに放置されていたことが明らかになり、経営者が逮捕された。直接のきっかけは2002年に山口で起きたトラックのクラッチ破損によりブレーキが利かなくなり、その結果トラック運転手が死亡した事故であるが、実は94年にも同じ事故が生じ、その事故調査を通じて、三菱はクラッチの欠陥を承知しながらそれを公表しなかった。それは部品の不具合をリコールすると経費がかかるばかりか、会社の信用低下を招き、当時進めていたダイムラー社との提携交渉にマイナスになるとの判断からだった。三菱は目先の利益を求めて欠陥を隠し、それが死亡事故にまでなり、そのために致命的なダメージを受け、今では、会社の存続までが危うい状態になっている。人が、自分の栄光のみを求める時、このような事態が生じる。

・御子を信じない者は、即ち神の栄光よりも人の栄光を求める者は、既に裁かれている。人が自分の栄光を求め続ける時、その栄光はどこかの段階で裁かれる。何故なら、神は生きておられるからだ。他方、自分の栄光ではなく、神の栄光を求める者は、いつの日か、必ず報われる。最後に、今日の招詞を共に読もう。ローマ書12:1-2の言葉だ。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

・礼拝とは日曜日に教会に集まり、共に讃美し、聖書を読むことだけではないとパウロは言う。月曜から土曜日まで、この世の生活に埋没して暮らし、日曜日だけ教会に来ても駄目なのだ。信仰とは道徳ではなく、変えられた生き方だ。人の栄光ではなく、神の栄光を求めるとは、自分の利益よりも相手の利益を大事にする生き方なのだ。神を愛するとは、人を愛することなのだ。三菱の経営者の中に、このことを理解している人がいれば、恐らくこんな事態にはならなかった。月曜から土曜日までを礼拝として生き、日曜日は安息する。日曜日を充実させるためには残りの6日間の生き方が大事なのだ。それが聖霊に導かれた生き方であり、そこに本当の安息、平安がある。

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