1.十字架の死の意味
・話題になっているアメリカ映画「パッション」を見た。キリストの受難=パッションを、聖書に忠実に再現した映画だ。映画はゲッセマネの園でのイエスの祈りから始まり、逮捕、裁判、拷問、処刑へと続く12時間をドキュメンタリー的に再現し、間に回想の形で、イエスの言葉や行為が描かれている。聖書を知る者にとっては、現実感を持って心に迫ってくる映画である。しかし、聖書を知らない日本人にはわかりにくいだろう。「映画の感想」をインターネットで見ても、「感動した」「すごい」と言う人たちと、「見なければ良かった」「むごい」という人たちに二分されている。2000年前に一人の宗教指導者が拷問され、磔にされて死んでいったとしても、この人を神の子と認めない限り、心に迫るものは少ないかもしれない。ただ、ノンクリスチャンの人でも、罪人として処刑されたイエス・キリストを、今日多くの人が神の子と信じるのは何故だろうという疑問は残り、その人たちが教会を訪ねる機会にはなるかもしれない。
・十字架はノンクリスチャンだけでなく、私たちにとっても、大きな課題だ。何故、神の子が十字架で死ななければならなかったのか、十字架でイエスが死なれたことが私たちにどういう意味を持っているのか、私たちもわかるようでいて、本当はわかっていない。わかっていないから、十字架が毎日の生活を生きる力になっていないのではないかと思う。そこで、今日は、この十字架の意味を、ヨハネ16章を通して、ご一緒に考えてみたい。
・ヨハネ16章はイエスが世を去るに当たり、弟子たちに、自分は何故、十字架で死ぬかを説明された場面だ。語られたのは十字架の前日、最後の晩餐の席上である。既にイスカリオテのユダは席を抜け出し、大祭司の下に急いでいる(ヨハネ13:30)。数時間後には、大祭司の遣わす兵士たちがイエスを捕らえるために来る。そのような切迫した状況の中で、語られている。イエスの言葉は14章から始まり、16章で終わる。今日、読む個所はその最後の部分だ。イエスはこれから起こる逮捕と裁判、そして十字架による死を見据えておられる。しかし、弟子たちがそれらの出来事に耐えうるか、イエス亡き後、自立して立つ事が出来るかを懸念されていた。だからイエスは、これから何が起きるのか、それはどういう意味を持つのかを、詳しく弟子たちに話された。
・イエスは言われた「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる」(16:16)。イエスはこれから十字架で死なれるが、それは永遠の別れではなく、しばらくの別れだ。十字架に無力に死ぬイエスを見て、弟子たちは泣くだろうが、やがてその涙は喜びに変わるとイエスは言われた。弟子たちには「何故十字架の悲しみが喜びに変わるのか」理解できない。そこでイエスはたとえで弟子たちに話された。それが21節の言葉だ「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」。
・十字架から聖霊降臨までの50日間に弟子たちが経験したことは、正に生みの苦しみであった。イエスが十字架で死なれた時、弟子たちは絶望した。イエスの死は、敗北以外の何物でもない。余りにも無力なイエスを見て、この方こそ、メシア、救い主と信じて従ってきたのに、そうではなかったと弟子たちは思った。彼らは立ち上がる力を失くし、自分たちも捕らえられるかも知れないと恐れ、家の戸に鍵をかけて閉じこもっていた(ヨハネ20:19)。女たちは、ただ泣き暮れていた(20:11)。その挫折の中で、彼らはイエスに再会する。復活のイエスに出会って彼らは立ち上がり、ペンテコステの日に聖霊を受けて彼らは外に出た。今まで当局者を恐れて閉じこもっていた弟子たちが、「あなた方の殺したイエスこそ神の子だった。私たちはその証人だ。私たちは見たこと、聞いたことを話さないではいられない」(使徒行伝4:20)と宣教を始めた。実に弟子たちは、イースターとペンテコステを通して、陣痛の後の喜びを見出したのだ。
2.悲しみが喜びに変わる。
・今日の招詞にヨブ記36:15-16を選んだ。次のような言葉だ。「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いてくださる。神はあなたにも、苦難の中から出ようとする気持を与え、苦難に代えて広い所でくつろがせ、あなたのために食卓を整え、豊かな食べ物を備えてくださるのだ。」
・子供の誕生を迎えるためには、必ず生みの苦しみが必要だ。出産を通して命を落とす女性は今でも多い。それでも女性は子供を生み続ける。新しい命の誕生の喜びを知っているからだ。出産は、生む方も、生まれるほうも、命がけの出来事だ。信仰の喜びも同じで、命がけの、生みの苦しみを経験しなければ、本当の喜びには出会えない。世の宗教は無病息災・家内安全・商売繁盛を唱える。災いは外において、福だけを内に招きたいと思うのは、人間の自然だ。しかし、聖書の教えるところは違う。「災いもまた神から来る」と教える。そして、私たちが病気や不幸になる事を「幸い」とさえ言う。ルカは「幸いなるかな貧しい人、幸いなるかな飢えている人、幸いなるかな泣く人」(ルカ6:20-21)と言うイエスの言葉を伝える。私たちは病気や災いを通して、自分の限界を知り、自分の力で生きているのではなく、生かされていることを知って、神を求めるようになる。求めた時、神は私たちを祝福してくださる。富んでいる人、笑っている人、満ち足りている人は神を求めないから災いなのだと聖書は言う。「神は・・・苦悩の中で耳を開いてくださり、・・・苦難の中から出ようとする気持を与えられる方」であることを知り、そのために苦難が与えられたことを知るとき、そこに喜びが生まれる。その時、病の人は病のままに、貧しい人は貧しいままに、満たされていく。
3.私は既に世に勝っている
・弟子たちはイエスの説明を聞いてわかったと思った。そして彼らは言った「あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、私たちは信じます。」(16:29)。しかし、この信仰告白がただ頭で理解しただけの、表面的なものであったことはすぐに明らかになる。イエスは言われた「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、私をひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」(16:32)。弟子たちの告白した信仰には、「わかりました。だから信じます」と言うものであり、全身全霊をかけた信仰ではなかった。だから、イエスが捕らえられ、彼らの身にも危険が及んだ時、彼らは自分達の安全を求めて、イエスを残して逃げ去っていくのだ。しかし、イエスは弟子たちを責められない。弟子たちが挫折することが必要であったからだ。「あなたのためなら命を捨てます」(13:37)という大言壮語の信仰が崩され、「私は罪人です」とひれ伏す信仰に変えられなければいけないからだ。イエスが捕らえられた時、ペテロはイエスを三度否認し、自分の弱さを知って、外に出て泣いた。ある人は言う「この時、ペテロが流した涙こそが、バプテスマの水だった」。人は砕かれて、自分の罪に泣いて、キリスト者となる。
・イエスは、弟子たちの弱さを知って、励まされる。最後にイエスは言われた「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(16:33)。平安とは悩みのないことではない。悩みの中でも満たされていることだ。イエスを信じても、不幸や災いがなくなるわけではない。病気は治らないかも知れない。悩みは依然としてある。しかし、キリストを知る人は、悩みによって打撃を受けても、やがて立ち直り、悩みが時間と共に恵みになる。キリスト者の悩みは有限な、しばらくのものなのだ。何故ならば、十字架の悲しみが、復活の喜びになったことを知っているからだ。
・「勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」。この言葉こそ、十字架で逃げ去った弟子たちを再び立ち上がらせた言葉であり、今日の私たちが、どのような挫折を経験しようとも、再び立ち上がらせる力である。弟子たちの経験が教えるものは、イエスの説教を聞いて涙を流しても、病のいやしを見て感動しても、人はキリストの弟子にはなれないということだ。自らが苦しみ、その苦しみの中に、イエスの声を聞く体験をしなければ、人には救いはない。悲しんだ人は慰められる。苦しんだ人は報われる。何故なら、「イエスは既に世に勝たれているから」。最後に詩篇126:5-6を共に読んで終わりたい。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」。