江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年3月28日説教(ヨハネ12:20-36、一粒の麦として生きる)

投稿日:2004年3月28日 更新日:

1.イエスのエルサレム入城

・先週、私たちはベタニヤ村での香油注ぎの記事を学んだ。イエス受難の6日前、土曜日の出来事であった。翌日の日曜日、イエスはエルサレムに入城された。過越祭りを前に、エルサレムには大勢の巡礼者が集まっていた。民衆は、イエスがラザロを死からよみがえらせたうわさを聞き、王の凱旋を意味する棕櫚の枝を持ち、イエスを熱狂的に迎えた。人々はイエスが不思議な力を持ち、その力で支配者ローマを追い出し、イスラエルに神の王国を建設してくれるのではないかと期待した。だから彼らは叫んだ「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」(ヨハネ12:13)。

・しかし、イエスは心穏やかではない。解放者としてイエスを歓呼する群集が、やがてイエスがそうでないことがわかれば、一転して「十字架につけろ」と憎悪する群集に変わりうるからだ。イエスは言われた「人の子が栄光を受ける時が来た。・・・一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12:23-24)。人の子が栄光を受ける、民衆はイエスが王として立つことを期待した。しかし、イエスは力でローマを倒しても、そこに何も生まれない事を知っておられた。力による救済は根本的な解決方法ではない。私たちもアメリカのイラクとの戦争でそれを改めて知った。アメリカはイラクのフセインを力で倒すことによって、新しいテロの標的になっている。正に「剣を取るものは剣で滅びる」(マタイ26:52)のだ。

・「一粒の麦が死ななければ」、麦を地に蒔けば、その麦は地の中で、壊され、形を無くして行く。そのことによって種から芽が生え、育ち、やがて多くの実を結ぶ。蒔かずに貯蔵しておけば今は死なないが、やがて死に、後には何も残さない。イエスが王として立っても、それは一時的なものに終わる。しかし、十字架で死ぬことによって、そこから多くの命が生まれていく。だからイエスは言われる「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(12:25)。

・ここで命を愛すると言われている「命」はギリシャ語のプシュケー=肉的、自然的命である。それに対して、永遠の命には「ゾーエー」という言葉を使う。プシュケー=肉の命を第一にするものは、ゾーエー=霊の命を失うとここで言われている。私たちも肉の命を貯蔵することは出来る。出来るだけ危険なところに近寄らず、幸福な生活を求めて老年になり、平和の内に死ぬ。しかし、そのような人生は成立しない。自分の満足と幸福だけをひたすらに追い求めている人が、現実には何と多くの悩みを負い、妬みや憎しみに囚われて惨めな人生を歩むかを私たちは知っている。何故ならば、競争社会において、全ての人が自己満足、自己実現を果たすことは出来ないからだ。競争に負けた人は勝者を恨み、競争に勝った人はやがて新たな競争者に負ける。そこには本当の命、平安はない。

・そのしるしとして、歴史を見てみればよい。華やかな脚光をあびて世に君臨し、強大な国家を建設しながら、やがて歴史のかなたに消え去って行った人は多い。アレキサンダーやナポレオンがどのような英雄であっても、今の私たちには、何の力も及ぼさない。しかし、イエスは異なる。人々から嘲られて、十字架で死にながら、今も歴史の中に行き、人々を動かしていく。イエスの行いや言葉によって、何と多くの人の人生が変えられ、今でも変えられていることか。これこそ、一粒の麦の教えが真理であることの証である。

2.おののきと戦われたイエス

・神の子として、イエスは十字架を受入れられる。しかし、人として、イエスの心は騒ぐ。「今、私は心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、私をこの時から救ってください』と言おうか」(12:27)。心が騒ぐ、肉の命を持つものとして、死の前に震える。「父よ、この杯を、この十字架の苦しみを取り除いて下さい」とイエスは祈られた。十字架はイエスにとっても重い荷だった。しかし、イエスはこの重荷を背負われた「父よ、御名の栄光を現してください」(12:28)。「この苦しみを取り除いてください、しかし、あなたが必要だと思えば、そのままにして下さい、私は担いますから」。

・私たちはいつも「父よ、どうか救ってください。この苦しみを取り除いてください」と祈る。そう祈っている間は、苦しみは取り除かれない。何故ならば、私たちの根本問題は私たちに病気や失業や挫折等の重荷があることではなく、私たちがその重荷に負けてしまっていることだからだ。もし私たちが「この苦しみが必要であれば、取り除かないで下さい。御心であれば背負いますから」と祈り始めた時、私たちを取り巻く外的状況は変らなくとも、重荷が重荷のままであっても、いやされていく。神はこのような祈りには必ず答えられるからだ。イエスの祈りに対しても神は答えられた「私は既に栄光を現した。再び栄光を現そう」(12:28)。神はイエスにしるしを行う力を与えられた。目の見えない人の目が開かれ、耳の聞こえない人の耳が聞こえるようになった。死んだラザロさえも生き返った。神はその栄光を既に示された。今度は今までにも勝る栄光、十字架の死と言う栄光が、イエスに与えられようとしている。


3.ゾーエーのためにプシュケーを捨てよ

・今日の招詞にマタイ21:42を選んだ。次のような言葉だ「イエスは言われた。『聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える』」。

・トルストイ「復活」を読んだ。こういうあらすじだ。ネフリュードフというロシヤの貴族が若いころ、情欲の赴くままに、領地の屋敷にいた小間使いカチューシャを誘惑し、自分の物にした後、やがて飽きて捨ててしまう。それから10年後、ネフリュードフが陪審員として裁判所に行った時、そのカチューシャが売春婦となり、殺人の罪で起訴された事件を担当する。自分が、昔もてあそんだ女性が、その結果、妊娠して屋敷を追われ、生まれた子は孤児院で死に、本人は売春婦として殺人容疑で裁かれようとしているを見て、彼は犯した罪の大きさを知る。彼はカチューシャの釈放のために、刑務所を訪問する中に、多くの人々が貧しさゆえに罪を犯し、苦しんでいるのを知り、他の受刑者のためにも奔走するようになり、そのことを通して、彼の自堕落な生き方が改められていく。彼は肉の命に死に、霊の命に復活したのだ。その物語の最後に引用されている物語が「ぶどう園の農夫のたとえ話」で、今日の招詞はその最後にイエスが言われた言葉だ。

・たとえ話の農夫たちは、主人から仕事のために送られてきているぶどう園を、自分たちの財産であるかのように思い込んでしまう。彼らは、ぶどう園の中にあるものはみんな自分たちのために造られたもので、自分たちの仕事はその中で暮らしを楽しむことだと考え、主人のことを忘れてしまい、終には主人のことや主人に対する自分たちの義務を思い起こさせた人々を殺してしまう。「同じことを我々もしているのだ」とネフリュードフは考える。「我々は自分の生活の主人は自分自身なのだとか、この人生は我々の享楽のために与えられているのだとか、愚にもつかない確信を抱いて生きている。そんなことは明らかにばかげている。我々がここに送られてきたのは誰かの意思であり、何かの目的があってのことではないか。我々はただ自分の喜びのために生きているのだと決め込んでいるが、主人の意思を実行しなかった農夫と同じように、我々もひどい目にあうだろう。神なる主人の意思に人々が従い始めた時、この地上に神の王国が樹立され、人々は到達しえる限りの最大の幸福を手に入れることになるのだ」と彼は悟る。

・私たちは自分の力で生きているのか、それとも神により生かされているのか、どちらを信じるかで私たちの行き方は変わってくる。どちらが主人であるかは、どちらが命の決定権を持っているかで決まる。私たちは自分の命を左右する力はない。私たちは死ぬことを運命付けられた存在だ。とすれば、命を与えて下さる方のことを考えるべきだと聖書は言う。命ほど大事なものはない。船が難破して海に投げ出された人が、持ち物や荷物を捨てなければ助からないとしたら、その人は命以外のものは惜しげなく捨てるだろう。私たちも同じ状況にあるのだ。世の命=プシュケーを手放そうとしないことが、本当の命(ゾーエー)を危険にしているのだ。だからプシュケー、自己を捨てよ、そうすればゾーエーを得る。家を建てるものの捨てた石、ユダヤ人が捨てたイエスの十字架の中にこそ、命があるのだと聖書は主張するのだ。

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