江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年1月4日説教(ヨハネ1:14-18、言は肉となって、私たちの間に宿られた)

投稿日:2004年1月4日 更新日:

1.イエスの受肉

・今日、私たちは新年最初の礼拝を持つ。新年は1月1日に始まるが、キリスト者にとって新年は12月25日のイエスの生誕に始まる。だから、クリスマス後の最初の日曜日は降誕節第一主日であり、今日は降誕節第二主日である。だから、私たちは新年になっても、クリスマスの物語を語り続けていく。今日はヨハネ福音書を通してクリスマスを考えよう。1章14節「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。神が人となって来られた、その人こそナザレのイエスだとヨハネは告白している。今日はこの言葉を中心に、クリスマスの意味を考えてみたい。

・ヨハネ福音書の冒頭は有名なロゴス賛歌で始まる。「初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1:1)。何の前提も為しに読んだ場合、この箇所は意味がわからない。しかし、これがヨハネの信仰告白であることを知れば、その意味は伝わってくる。ヨハネはイエスの弟子として、3年間イエスと生活を共にした。その間、彼は多くの驚くべきものを見、また聴いた。5つのパンで5千人を養われる奇跡を見た。死んだラザロが生き返るのを見た。そして何より、十字架で殺されたイエスが復活されたのを彼自身の目で見た。このような経験をした彼にとって、イエスはもはや人ではなく、神としか思えなかった。神ならずして誰がこのようなことが出来よう。彼はその信仰を説明するために、ロゴスという言葉を用いた。ロゴスとはギリシャ語で理性、言葉を意味する。イエスは神の言葉として、世に来られた。従って、言(ロゴス)の代わりにキリストを用いると1章1節はすんなりと通じる「初めにキリストがあった。キリストは神と共にあった。キリストは神であった」。このキリストがナザレのイエスとして来られたとヨハネは言っている。

・ナザレの大工であったイエスは、キリストとして、天地創造の前から存在されていたとヨハネは言う。これもまた理性では納得できないことだ。しかし、ヨハネはそれにもかかわらず告白する。「私たちはその栄光を見た」(1:14)のだからと。その信仰の目から見れば、イエスが来られた出来事は次のようだ。即ち、神の言葉である光は始めからあり、世は彼によって創造されたが、世はこれを知らず、暗闇の中にあったのだと。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1:10-11)。

・イエスを直接殺したのはローマであったが、ローマにイエスを告発したのは、ユダヤの祭司や律法学者であった。彼らは神礼拝を司り、神の言葉を人々に伝える役割を担った人々であった。その彼らが神から送られたキリストを殺した。何故なのか。祭司は神殿に礼拝し、十分の一の献げ物をすれば救われると人々に教えた。しかし、その献げ物は祭司が生活を立てるための物になり、彼らは宗教貴族として贅沢三昧の暮らをしていた。祭司たちは神のためではなく、自分のための献げ物を人々に要求していたのだ。律法学者達は神の言葉である律法を守るように教えたが、自らは「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好」んだ(マタイ23:6-7)。律法学者達が求めたのは自分達の栄光であり、神の栄光ではなかったのだ。祭司や律法学者達は、自分達は神に仕え、光の中にあると思っていたが、実は彼等自身は闇の中にいた。そのことをイエスが指摘され、批判されると彼らはイエスを憎んだ。

・しかし、イエスを十字架につけたのは祭司や律法学者だけではなかった。民衆はイエスの不思議な力に驚き、この人こそメシアかもしれないと思っていたが、イエスの与えるものが彼らの求めるお金やパンではなく、霊の生命であることを知ると逆上し、「十字架につけろ」と叫んだ。弟子たちも、この人こそ神の預言者だと思って従って来たが、イエスが捕らえられ、裁判にかけられると怖くなり、イエスを捨てた。すべての人がイエスを捨てたのだ。すべての人が暗闇の中にいたとヨハネは言う。

2.人間の罪を見つめる

・年末にNHKで「映像の世紀」を再放送していた。20世紀の出来事を映像で再現した番組であった。その第10集「難民の世紀」を見ながら、ヨハネが言うように、「世は闇の中にあり、闇は光を理解しなかった」ことが真実であると思った。20世紀は難民の世紀とも言われる。何故難民が発生するのか、強いものが弱いものを抑圧し、それが民族レベルで起こった時に難民が生まれる。例えば、第二次大戦で600万人のユダヤ人がドイツ人により殺された。戦後、生き残ったユダヤ人達は殺されなくともすむ安全な地を求めて、父祖の地であるパレスチナに帰り始めた。ところが、その地には既にアラブ人が住んでおり、彼らはユダヤ人を受け容れず圧迫した。しかし、ユダヤ人の数が増すに従い、形勢は逆転し,今度はユダヤ人が強者としてパレスチナ人を追い出し、パレスチナ人が難民となっていった。この争いは現在も続いている。第二次大戦後にユダヤ人が安全な地を目指して移住して行ったのは理解できるし、他方パレスチナ人が彼らを侵入者として拒否したのもわかる。双方とも正しいのに、何故悲劇が生まれるのか。それは互いに相手のことを思わず、自分達のために相手を支配しようとしたからだ。その支配がぶつかり合って闇が生まれた。この世を闇にしているのはサタンではなく、自分の栄光を求める人間の罪なのだ。だから、この罪が取り除かれない限り、世の闇は無くならない。だから、イエスが「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:39)として、来られたのだ。

3.闇の終わりが来る。

・この闇はこれからも続くのか。歴史を見れば、イエスが来られても、闇は依然世を支配していると認めざるを得ない。しかし、信仰の目で見れば異なる。ヨハネはこの闇を打ち砕くために「肉となって、私たちの間に宿られた」(1:14)と記す。多くの人はイエスを受け容れなかったが、信じたものもいた。バプテスマのヨハネはイエスが神から遣わされたことを信じた。イエスの弟子たちも十字架と復活を通して、信じる者とされていった。少数の者は信じたのだ、そして信じた者は救われた「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(1:12)。信じたものは神の子となった。神の子が人となられたことによって、人が神の子とされる道が開けたのだ。それがクリスマスの出来事だったのだとヨハネは言っているのだ。子は自分の無力を知る故に、父なる神に拠り頼む。拠り頼む時に恵みは与えられる「私たちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」(1:16)。そしてヨハネは言う、最大の恵みはどんな時でも神は共にいて下さり、私たちを愛していて下さることを信じることが出来ることだと。

・その言葉が今日の招詞ヨハネ黙示録21:3―4だ。「そのとき、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」

・お正月には大勢の人が神社に初詣に行く。人々が願うことは「家内安全、無病息災、商売繁盛、厄除け祈願」だ。苦しみが来ませんように、災いが来ませんようにと祈る。その時、人々は闇は自分の外側にあって、外側の闇が私たちを苦しめると考えている。だから、闇が来ませんようにと祈る。しかし、聖書が私たちに教えることは、闇は私たちの心の内側にある罪であり、その罪が取り除かれた時、闇はなくなるのだと教える。だから私たちは、闇が来ませんようにと祈る必要は無くなる。神が共にいて下さるからだ。経済的な困窮があっても、神は必要なものは与えて下さる。病気になっても、必要であればいやして下さるであろうし、仮にいやされなくともその病の中で平安にいることが出来る。世の人に裏切られ、失望することがあっても、「私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である。主の御目に私は重んじられている」(イザヤ49:45)と信じることが出来る。世にどのような闇があろうとも、キリスト者はその闇から開放されている。この信仰が与えられたことこそ、私たちへの最高のクリスマス・プレゼントなのだ。

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