1.かにた婦人の村
・千葉県館山市に、「かにた婦人の村」という施設がある。もと売春をしていた女性たちの厚生施設として深津文雄という牧師が作った。日本では戦前・戦後を通じて売春が公に認められ、貧しい家庭の子供たちがお金のために遊郭に売られていった。昭和33年に売春防止法が施行された時、それまで売春で暮らしを立てていた女性たちのために全国に婦人施設が作られた。しかし、女性たちの中には長い間の売春生活により、性病にかかり、体や神経を蝕まれた人たちも多く、その人たちは行き場がなかった。その人たちが暮らせる場所として作られたのが、かにた婦人の村である。
・私が前に所属していた中野バプテスト教会では、バザーの収益金の一部をそこに寄付していた。10年ほど前、教会の修養会を館山でやることになり、そこを訪問したことがある。施設が出来てから40年近くがたち、収容されていた人たちは皆老人になっており、中には梅毒のため廃人同様になっている人たちもいた。また、この40年の間に死んでいった人たちも多い。施設の中には納骨堂があり、家族の引取りがなかった人たちの遺骨が納められていた。生きている人たちに会い、また既に骨になっている人たちとも出合い、男性の欲と罪が多くの女性を苦しめた現実を目の前に見て、自分が男性であることを恥ずかしく思った記憶がある。
・誰も好んで売春婦になろうと思う人はいない。しかし、貧しさのため、あるいは戦争に負けたために、歴史の中でも多くの人が売春婦として売られ、苦しんで死んでいった。神は、その女性たちの悲しみと苦しみを知り、それを憐れむ。
2.その系図の中に、四人の女性たちの名が挙げられている。
・今日、私たちはマタイ1章を、御言葉をいただく聖書箇所として、与えられた。その系図の中に、四人の女性の名が出てくる。当時のユダヤは徹底した父系社会であり、系図の中に女性が登場するのはきわめて異例である。しかも、その四人の女性はそれぞれに暗い過去を持つ。
・3節に出てくるタマルは創世記38章に出てくるが、ユダの長子エルの妻となった女だ。しかし、夫エルは子供を残さずに死んだ。当時の慣習では、兄が子供を残さずに死んだ場合は弟が兄嫁を妻として迎え、兄のために子をもうける(レビラート婚)。その慣習に従ってタマルは弟オナンの妻となった。しかし、オナンも子を残さずに死ぬ。その時は更にその弟と結婚する慣習であるが、舅のユダは弟シェラをタマルの夫とした時、シュラまで死んでしまうことを危惧し、タマルと結婚させようとしなかった。当時、婦人が子供を産まないということは恥ずべき事と考えられていたため、タマルは遊女を装って舅ユダに近づき、ペレツとゼラフを産んだ。そのペレツがキリストの系図の中に入っている。
・5節のラハブはエリコの遊女(ヨシュア記2~6章)で、エリコを探るためにヨシュアが遣わした2人の斥候をかくまい助けた。ヨシュアは、それに感謝し、ラハブ一族を助け、夫を与えた。そのラハブに生まれたのがボアズである。ラハブが何故遊女になったのかは分からない。遊女は当時の社会でもさげすまれる存在であった。
・5節のルツはモアブの女で、エリメレクの子マフロンと結婚したが、夫は死に義父も死んで、姑ナオミに従ってベツレヘムに行き、姑を助けた。その地でエリメレクの親族の一人であるボアズと知り合い、ボアズはルツをめとった(ルツ4章)。
・6節ウリヤの妻はダビデの武将ヘテ人ウリヤの妻バテシバで、彼女は夫ウリヤが戦場にいる時ダビデ王に召し入れられて妊娠し、ダビデは自分の部下であったウリヤを戦場で殺してバテシバを妻とした。バテシバは後にソロモンを産んだ(〓サム11‐12章)。
・四人に共通するのは、それぞれに後ろめたい過去を持つことだ。タマルは舅ユダとの姦淫を通して子を産んだ。ラハブの職業は娼婦であった。ウリヤの妻はダビデと姦淫を犯してソロモンを生んでいる。また、ルツもユダヤ人の嫌う異邦の女であった。イスラエルの歴史の中にはサラ(アブラハムの妻)やリベカ(イサクの妻)等賞賛されるべき女性はたくさんいる。何故、異邦人であり、また性的不道徳が批判されかねない女性たちをあえてマタイはキリストの系図の中に選んだのか。昔から、多くの人が疑問に思ってきた。
3.罪びとを憐れまれる神
・マルコ6:3では、イエスの故郷では人々はイエスのことを「マリヤの子」と呼んだと記す。父兄社会の中で人は通常は父親の名前で呼ばれるから、イエスは「ヨセフの子」と呼ばれるべきであるのに、「マリヤの子」と呼ばれている。これは「ヨセフの子ではなくマリヤの子」という響きを持っており、ユダヤ人の中でイエスの出生に関して「隠された事柄がある」と悪口を言う人たちがいたことを示す。イエスが何故、陰口をたたかれても仕方のない様で生まれてこられたのか。それは、私たちの両親が、タマルやバテシバのような罪びとであっても、否、私たち自身がタマルやバテシバのように罪を犯した存在であっても、神はその罪を犯す私たちの悲しみを知っておられるからだとマタイは主張する。パウロは言う「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」(ローマ8:3)。
・四人の女性たちは罪を犯した。それは生きるために止むを得ない罪であった。タマルは舅の子を生んだが、当時の女性にとって嫁いで子を産まずに去るということは耐え難い屈辱であった。だから、あえて舅の子を生んだ。その舅の子ペレツがイエスの系図を構成する。ラハブは娼婦であった。でも誰が喜んで娼婦になどなろう。恐らくは家が貧しく奴隷として売られた等の事情があった。しかし、そのラハブの産んだ子から神の子が生まれた。ウリヤの妻バテシバはダビデに無理やり王宮に連れ去られ、夫はダビデに殺されている。バテシバの一生は決して平和ではなかった。神はこの女性たちの悲しみを知っておられ、それを憐れまれた。だから、彼女たちは神の子の系図に入ることを許されたのである。
・この福音書を書いたマタイも悲しみを知っている。彼は当時の社会で嫌われ排除された収税人であった(マタイ9:9)。しかし、イエスはそのようなマタイを弟子として受け入れてくれた。自分が差別され苦しんだ人こそが、差別に苦しむ他者を憐れむことが出来る。それがマタイがキリストの系図に4人の女性の名前を入れたもう一つの理由である。
・今日の招詞にヨハネ8:10-11を選んだ。
「イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』女が『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』」
人々はイエスをわなにかけるために姦淫を犯した女をイエスの前に連れてきて言った「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」。イエスは言われた「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。このイエスの言葉に人々は一人一人立ち去って行った。自分は罪びとではないと言える人は一人もいなかったからだ。イエスは女に言われた「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。
・神は私たちが弱さのために罪を犯すことを知っておられる。そして私たちがその罪を認めたときに私たちを赦される。この赦しを経験したものは、もはや以前の生活には戻れない。だから、私たちは教会に来るのだ。私たちもこの赦しを経験した。だから、古い自分に死んで、新しくされたのだ。福音書の最初は赦しから始まっている。私たちはこのことに感謝し、「アーメン、わが主よ、あなたは生きておられます」と讃美したい。