1.あなた方は私をだれと言うのか
・受難節第三主日を迎え、ルカ福音書9章から学ぶ。イエスは2年間のガリラヤ伝道を終え、これからエルサレムに向かおうとされている。エルサレムでは十字架が待っている。最期の時を前に、イエスは弟子たちにこれから起こるであろうことを告げようとされている。弟子たちはキリストとしての自分の使命をどれくらい理解しているのか、弟子たちを訓練するために、まず彼らに、「人々は私を誰と言っているのか」と聞かれた(ルカ9:18)。弟子たちは答えた「ある人はあなたを洗礼者ヨハネの生まれ変わりだといい、別の人はエリヤだと言い、他の人は預言者だと言っています」と。イエスは次に弟子たちに聞かれた「それではあなた方は私を誰だと言うのか」(9:20)。他の人たちが何と言おうとかまわないが、これまで私のそばにいたあなた方はどう思うのか。これは、私たちに向けられた問いでもある。「あなたは私を誰だと言うのか」。ペテロは答えた「あなたは神からのメシヤ、キリストです」。私たちもイエスを「キリスト、救い主」と告白する。その時、問われる「私がキリストであることが、あなたの生とどのように関わるのか、そのことによって、あなたの生き様はどのように変ったのか」。もし、私たちが教会で「イエスは主です」と告白してバプテスマを受けても、それによって私たちの生き方が根底から変えられていないとしたら、それは主告白ではないのではないかとここで問われている。
・ペテロはあなたこそメシヤ=キリストですと答えた。彼の答えは正しい。しかし、彼はまだ本当にはイエスを理解していない。マタイ福音書によれば、イエスが「私はこれからエルサレムに行って十字架につけられて死ぬ」と言われた時、ペテロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言っている(マタイ16:22)。ペテロの理解したメシヤは自分たちにとって都合の良い、自分たちに役に立つメシヤ像であった。即ち「彼らにパンを与え、彼らの病をいやし、彼らの敵を打ち砕く」人こそ、救い主であった。私たちもイエスを同じ様に理解しているのかも知れない。
2.イエスが十字架で死なれたことが、私たちとどうかかわるのか。
・イエスは弟子たちが自分の使命を理解していないことを知られた。だから弟子たちに言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」(ルカ9:22)。長老,祭司長、律法学者とはユダヤ最高会議を構成するメンバーである。イエスは、神が選ばれた民が、神の名において神の子を十字架につけて殺すであろうと言われている。何故メシヤ、神から遣わされた救い主がその民によって十字架で殺されなければいけないのか。ペテロには理解できなかったし、私たちにも理解が難しい出来事である。イエスは続けて言われた「だれでも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか」(ルカ 9:23-25)。
・私はここで、三つのことを示されているように思う。第一は人間は死ぬ存在であることを知れとのメッセージである。死を前にすれば、全てのものは無価値になる。「人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか」(ルカ9:25)、まさにその通りで、人間にとって大事なもの、お金や地位や家族でさえ、死んでしまえば何にもならなくなる。死ねば無くなるもののために生涯をかけるのは、あまりにも、もったいないではないか、もっと大事なものがあるのではないかとイエスは問われている。しかし、私たちは日常の忙しさの中で、そのような問題を考えない。忙しい=心を無くしているのだ。もし、ある人に癌が発見されて緊急手術をしないと生命の危険があると言われれば、その人はどんなに忙しくとも時間を遣り繰りし、またお金が無ければ借りてでも工面して、治療を受けるだろう。遅かれ早かれ終るこの世の命のためにそんなに一生懸命になるのに、何故、終らない命のためには一生懸命にならないのか。第一の使信は、ラテン語の格言に従えば「Memento-mori=死ヲ忘レルナ」である。
・第二のメッセージは「キリストが死に勝たれたことを覚えよ」である。イエスはエルサレムで十字架につけて殺されるだろう。しかし、彼は三日目に復活する。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」(ルカ9:22)。聖書の記事は不思議に満ちている。どうすれば、5つのパンが5千人を養うことが出来るか、私たちは知らない。どうすれば、目の見えない人の目が開けられるかも、私たちは知らない。ただ唯一否定できないことは、イエスが十字架で死なれた後、復活されて弟子たちに現れたという事実である。ペテロを始めとする弟子たちはイエスが十字架につけられた時、自分たちも殺されるかも知れない恐怖のなかで逃げた。そのペテロ達が、イエスの死後まもなく「キリストはよみがえられた」と宣教を始め、死で脅されても信仰を捨てなかったのは、歴史的に証明されている事実だ。何があったのか、復活のイエスに出会い、その出会いを通じて、イエスが「神の子、キリスト」であることを知り、その時変えられたとしか思えない。二番目の使信は「Memento-Domini=主ヲ忘レルナ」ということだ。
・三番目のメッセージは「もはや死を恐れる事はない」ということだ。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」(ルカ9:24)。死に勝たれた方がおられ、その力が私たちにも与えられるとの約束がここにある。死は全てを破壊する。しかし、私たちはその破壊を超えたいのちをいただくという望みが与えられる。三番目の使信は「死ヲ恐レルナ」である。「死ヲ忘レルナ―主ヲ忘レルナ―死ヲ恐レルナ」、これは信仰の中心的使信である。
3.イースターを前にして
・キリスト教の伝統では、教会堂は玄関、入り口を西に向けて建てられる。そして、教会堂の奥、すなわち東側には十字架がある。西は太陽の沈むところ、死の世界、闇の世界である。キリストは十字架に死なれた。つまり、西に葬られた。そのキリストが復活された、沈んだ太陽が再び東から昇った。だから十字架は東の方角に、即ち光のなかに建てられている。イースター=復活という言葉は東=イーストから来る。即ちイエスが再び光としてイーストから来られる。多くのものがそれを目撃するだろう。ルカ福音書の「よく聞いておくがよい、神の国を見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」(ルカ9:27)という言葉はそれを預言するものだ。
・今日の招詞として第一コリント15:54-55を選んだ。
それは、パウロが高らかに宣言した死への勝利宣言だ「この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。『死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』」。
・「イエスは復活された。私たちはその証人だ」、弟子たちが最初に述べ伝えたのは、そのことだった。パウロが最も大切な教えとして継承し、伝えたのも、この復活の証言だった「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。・・・そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである」(第一コリント15:3-8)。パウロは「キリストが復活しなかったならば私たちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄だ」とさえ述べている(同15:14)。イエスが復活された、そのことによって私たちも「死んでも死なないもの」とされる希望を抱くことが出来る。その時、私たちの人生の意味が変って来る。もはや、人生の全ての意味を無にしてしまう死を恐れる事はない。また、過ぎゆくこの世の出来事を追いかけることもない。ただ、いのちを与えてくださる方のみを見つめて歩けばよい。その時、イエスの約束の声が私たちの人生を導く。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」(ルカ9:23-24)。これがイースターを前にしていただいた言葉である。