1.ペテロの裁判
・ペテロとヨハネは祈るために神殿に行った。神殿では一人の足の不自由な男が物乞いをしていたが、ペテロは彼の足をいやした。その出来事を見て驚いた群集が、回りに集まってきた。ペテロはその群衆に語り始めた「あなた方はナザレのイエスを殺してしまった。しかし、神はこの方を死からよみがえらせた。私たちはあなた方が殺したイエスの名によって、この人をいやしたのだ」(使徒3:15-16)。群集は目の前で足の不自由な男が歩き出した奇跡を見て、ペテロの言葉を信じた。その時、改心したものは5千人であったと使徒行伝は記す(4:4)。
・これはイエスを捕らえ、処刑した人々にとっては耐えられない出来事だった。彼らは神殿の庭で群集に語るペテロとヨハネを捕らえて言った「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」(使徒4:7)。ユダヤ当局者は思った「神殿は聖なる場所だ。その神殿を汚した罪で私たちはイエスと言う男を捕らえて処刑した。それから2ヶ月もたたないうちに、あの男の弟子たちであるお前たちが『イエスはよみがえった』などのたわごとを説教して、民衆を惑わしている。私たちはお前たちを許すわけにはいかない」。彼らはイエスを処刑することによって、事は終わったと思っていた。弟子たちはイエスを見捨てて逃げ去っていた。ところがその弟子たちがどこからか現れ、「イエスは復活した、私たちはその証人だ」と言い始め、民衆がそれを信じ始めている。これは危険だ、何とかしなければいけない。
・ユダヤ当局は、弟子たちを捕まえて脅せば、彼らはすぐに黙ると思っていた。しかし、驚くべきことに、その弟子達が彼らに反論を始めた。ペテロは、イエスが50日前に捕らえられ、死刑を宣告されたその場所で弁明を始めた。信じられない出来事がここで起こっている。その弁明が8節以下にある。「私たちは病人を、あなた方が殺したイエスの名によっていやした。この方こそ救い主=キリストであることが、その復活によって証明された。この方の名の他に救いはない」(4:8−12)。
・ペテロは50日前には当局の目を恐れ、逃げ隠れしていた。その彼が、イエスが死刑宣告を受けたまさにその同じ場所に立ち、今イエスのために弁明を始めている。権力者たちは、二人の無学な男たちによって追い詰められてしまった。もし、彼らを殺せば、二人を支持する民衆は騒乱を起こすだろう。二人はその言葉と業で民衆の心を捕らえてしまった。彼らに出来ることは、二人を脅して釈放することだけだった。彼らは弟子たちに言った「今後、あの名によって誰にも話してはいけない」。しかし、彼らはまたもや負かされた。ペテロは言った「私たちは見たこと、聞いたことを黙っているわけには行かない。神に従わないであなた方に従うことを神は喜ばれるだろうか」(使徒4:19-20)。
2.神に従うこと、人に従うこと。
・イエスが権力者たちと衝突したように、イエスに従うものも彼らと衝突する。権力者たちはイエスを黙らせようとしてさまざまな圧力を加えたが出来ず、暴力でイエスを殺し、その口を封じた。しかし、今、イエスの弟子たちが立って彼らに不服を唱える。権力者たちは、彼らの口を封じるために、弟子たちをも殺そうとするだろう。しかし彼らの口を封じることは出来ない。彼らは「人ではなく神のほうを向いている」(4:20)からだ。
・今日の招詞に、マタイ10:28を選んだ。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」。ユダヤ当局はイエスを殺し、また今弟子たちをも迫害しようとしている。しかし、魂から出る言葉は殺すことは出来ない。「見たこと、聞いた事を話さずにはいられない」からだ。私たちが今読んでいる使徒行伝の言葉は、イエスや弟子たちが命をかけて伝えてくれた貴重な言葉なのだ。だから、私たちはこの聖書が示す生き方を生きるし、またこの聖書を伝えていく。
・本年4月に行われた西南学院神学部・始業礼拝の中で、寺園喜基先生が、イラク戦争でアメリカの従軍牧師が述べた説教の一部を紹介されている。日本テレビの「戦場のミサ」という番組の中で紹介されたものと言う。今回のイラク戦争で、20万人のアメリカ軍が派遣されたが、その兵士たちのために数百人の従軍牧師も派遣され、礼拝が行われた。ある牧師は次のように語った「命令という形で我々は人を殺します。ただ、個々のイラク兵に対する憎しみや怒りで殺すわけではありません。すべての人の理想のために殺すのです。だから、この戦争において人を殺すことは宗教上の観点から正当化されると私は思います」(西南学院大学神学部報40号から)。寺園先生はこの牧師の言葉に怒っておられたが、私は当然の言葉だと思う。兵士が良心の痛みなしに人を殺せるように整えるのが従軍牧師の仕事であり、この牧師は国のために、正義のために人を殺すことを神は喜ばれると心からそう思っているのだ。教会が神ではなく、人間を向いたとき、このようになるのだ。
・しかし、彼はもはやキリストの弟子ではない。何故ならば、イエスや弟子たちが命をかけて守ってきた福音は「正義のためには人を殺せ」とは教えないからだ。イエスが言われたことは、相手を殺せと言うことではなく、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と言うことだった。「世があなたを殺すのであれば、そのまま殺されなさい。そうすれば神はあなた方に永遠の命を下さる」とイエスは言われたのだ。この世でキリスト者になるということは少数者になることだ。少数者であるため、生きにくいことも起こる。この世と対立し、「神に従うのか、人に従うのか」と問われるときもあろう。しかし、私たちはこの聖書の言葉だけを頼りに生きていこう。何故なら、使徒行伝が示すように、神の言葉は弟子たちが命にかけて守り抜き、今、私たちの元に伝えられてあるのだから。私たちがどっちを向いて生きるのか、神の方を向くのか、人の方を向くのかは大事なことだ。それが私たちをある時はクリスチャンにし、ある時は神を裏切るものにする。「この名のほかには救いはない」(使徒4:12)、私たちはこの言葉を篠崎の人々に伝えるために、今日、この教会に集められた。