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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2003年6月22日説教(出エジプト記20:1−21、祝福として戒めが与えられた) 

投稿日:2003年6月22日 更新日:

1.十戒

・私は今日の説教題に十戒を選んだ。子供のころ、親から「悪いことをしてはだめだ」とか「人に迷惑をかけてはいけない」などと言われて育った。でも、親の目をかすめてはいたずらを繰り返した。先日、教会から映画「十戒」のビデオを借りて見て、子供のころを思い出した。それで、今日のテーマとして十戒を選んだ。
・十戒は出エジプト記20章および申命記5章に規定されているが、それによれば、シナイ山において、神自ら語り、神自ら二枚の板に書き記した戒めがモーセに与えられ、モーセはそれを箱の中に納め、保存した。これによって、十戒は古来、モーセの十戒といわれている。今から3500年前、紀元前1500年ごろに書かれたと言われる。その名が示すように、戒めであり、一般の人からはあまり歓迎されない。何故ならば、それは「・・・してはならない」、あるいは「・・・せよ」との命令に満ちているからだ。私も人に命令されたり、縛られたりするのは好きではない。皆さんもそうではないかと思う。
・世間の人は十戒について「キリスト教は十戒を大切にすると言うが、それはいろいろな戒めで人を縛るものではないか」と言う。しかし、自分の救いに関心を持つ私たちにとっては、深く探るべき物語であると思う。内村鑑三は次のように言っている「キリスト教の本源はどこにあるのか、いわく十戒にある。キリスト教の福音の真髄を味あわんと欲せば、よろしく、その根底たる十戒を学ぶべきである」と。
・十戒の内容は神に対する人の義務を表した「天戒」とも言うべき宗教律の部分と、人に対する義務を示した「人戒」とも言うべき道徳律の二部からなっており、どの戒めも「・・・してはならない」と言っている。しかし、神の戒めは、本来人の心の中に刻み込まれている。私たちが「良心」と呼ぶものがそうである。哲学者のカントは言う「外なる星の輝く大宇宙と、内なる道徳律の支配する小宇宙に、常に新たなる驚きを感じる」と。しかし、良心だけでは十分ではない。人の良心と言うものは、環境や歴史の違いによって変わるものであり、普遍妥当性を持たないからだ。

2、律法の意味

・聖書によれば、十戒、神の律法には三つの意味がある。第一に、神の律法によって始めて罪が徹底的に知らされることだ。パウロが言う「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう」(ローマ7:7)。「貪るな」と禁止されて始めて、人は自分の貪り、つまり罪を知ることができるのだ。
・律法の第二の意味は、このようにして罪を認めた魂をキリストに導く役割をすることだ。パウロは言う「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです」(ガラテヤ3:23-24)。人は律法によっては救われない。何故なら、罪によって、律法を守ることが出来ないからだ。イエスが十字架で罪の購いのために死んでくれたのに、これを信じて救われる人が少ないのは、自分の罪がわからないからだ。モーセの十戒を学ぶ時、私たちは自分の罪を悟ると共に、その罪からの救いを用意して下さった神の愛がわかってくる。
・律法の第三の意味は、すでに救われた人たちのために、その歩みの基準となることだ。詩篇記者は歌う「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」(詩篇1:1-2)。救われた人はキリストにあって自由であり、律法から解放されている。しかし、だから何をしても良いと言うことではない。律法が不要になるわけではない。例えば、列車はレールの上を走ってこそ、自由に走れる。本来の用を果たせるように、律法から解放されたクリスチャンは、律法に従うところにこそ自由があり、神の栄光を表すことが出来るのだ。列車は信号という律法に従わなければ、衝突事故を起こすのだ。

3.祝福としての戒め

・十戒では「安息日を守る」事が強く求められている。それぞれの戒めは短く「・・・せよ」「・・・するな」と言われているだけなのに、安息日の厳守だけはかなり詳しく述べられている。出エジプト記20章8−11節では次のように言われている。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。
・イエスの時代、人々はこの掟を厳格に守るべきだとして、細かい規則を作った。元来、安息日は毎日の厳しい労働から解放されて休む日であったが、やがて休息の仕方について厳格に規定されていくようになった。たとえば,火をおこすこと,薪を集めること,食事を用意することさえも禁じられるようになった。さらには、安息日を犯す者は殺されなければならないとさえ定められようになった。ここにいたって安息日が安息の時ではなく、かえって人を束縛するものになった。
・今日の招詞にマタイ12:7−8を選んだ。
「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」
安息日にイエスと弟子たちは麦畑を歩いていた。弟子たちはお腹が空いたので、麦の穂を摘んで食べ始めた。それを見てパリサイ派の人々はイエスを非難した。「あなたの弟子たちは安息日に働くなと言われた主の戒めを破っている」。麦の穂を摘んだ行為が、刈入れ、すなわち労働と認定されて、この非難になった。ここに至って、人々は何故安息日の規定が設けられたのかを忘れ、規定だけが先行して人間を苦しめるものになった。それに対してイエスは言われた「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)。
・今日、私たちは日曜日を安息日として守り、教会に来て礼拝する。しかし、忙しいときもある。子供の運動会があるときは礼拝を休んでいいのか、夫が病気で寝込んでいるときはどうするのか、会社に日曜出勤しなければいけないときどうするのか。安息日を守るとは何か、今日の問題でもある。私はイエスが言われた言葉に従って判断すればよいのではないかと思う。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」、私たちは神の前に安息するために教会に集まる。仮に、他の用事を神様からいただいたのであれば、それに従って安息日をすごせばよいと思う。それが正しい安息日のすごし方だと思う。
・戒めは祝福として与えられていると思う。イエスは言われた「もっとも大事な掟は神を愛し、人を愛して生きることである」(マタイ22:37−39)。神に愛されている私たちは、「人を愛して心に平安をいただきなさい」と招かれている。十戒が私たちに教えていることはそういうことでないかと私は思う。戒めは祝福なのだ。

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