1.WWJD
・最近、日本の若い人たちの間で、WWJDと書かれたアクセサリーが流行していると聞いた。「WWJD−What Would Jesus Do、イエスなら何をされるだろう」という意味である。インターネットで検索してみると、リストバンドや携帯電話のストラップ、ブローチ等で、WWJDブランドがたくさん売り出されていた。またCDや本も出ている。元々はアメリカのプロバスケットボールの選手たちが身に着けているのを見て、流行し始めたという。アメリカではクリスチャンが多いから、選手たちもこのWWJDの心を忘れないために身に着けているのであろうが、日本の若い人たちは単に「かっこいい」という感覚で身に着けているのだろう。しかし、考えればこの「WWJD What Would Jesus Do」という言葉は、私たちクリスチャンにとっては大事な言葉である。
・イエスは言われた「互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:12-13)。私たちが毎日の生活の中で、「私にとって友とは誰だろう、私の嫌いなAさんも友なのだろうか、それとも私の好きな人だけが友なのか、イエスはこういう時どうされただろうか」と考えることによって、私たちはイエスに近づいていく。また、「愛しあうとはどういう意味なのだろう、夫婦が愛し合う、親子が愛し合う、それさえ出来ないのに、家族以外の人のために心を配ることなど出来ないのではないか。イエスならどうされただろう」。私たちはその答えを求めて教会にくる。今日は、このイエスが私たちに残された遺言「愛し合いなさい」という言葉について、ヨハネ15章から聞いてみたい。
2.愛し合いなさい
・ヨハネ15章はイエスの惜別の言葉の一部である。捕らえられる前の日、すなわち木曜日の夜、最後の晩餐の時、イエスは弟子たちの足を洗われた。そして「私があなた方の足を洗ったように、あなた方もお互いに足を洗いあいなさい」と言われた(ヨハネ13:14)。その後、イエスは弟子たちに向かって惜別の言葉を述べ始めらる。その言葉がヨハネ14章からの言葉であり、その文脈の中で「互いに愛し合いなさい。これが私の与える掟である」とイエスは言われている。
・15章12節でイエスがまず言われていることは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という言葉である。この愛はイエスから始まったのだ。最初にイエスが私たちを愛された。最初にイエスが私たちの前にひざをかがめて私たちの足を洗ってくれた。だから、私たちも人を愛し、人の足を洗いたいと願う。ヨハネはここで「愛しあう」という言葉にアガペーというギリシャ語を使っている。これは、私たちの知っている愛はこれとは違う。私たちが知っているのはエロスの愛だ。妻や子を自分の分身として愛する。これが私たちの愛だ。聖書はこのエロスの愛を否定しない。それは人間にとっては自然な、基本的な愛だ。しかし、この愛は一つの限界を持つ。何故なら、自分とその分身を愛するということは、他者に対しては閉鎖的になるからだ。これは野球場でよく見えないから立ち上がる行為に似ている。自分ひとりが立ち上がればよく見える。しかし、自分がよく見えるようになるとき、他の人は見えなくなるから、他の人も立ち上がる。そのうちみんなが立ち上がり、誰も見えなくなる。私たちが人間関係で悩まされるのは、お互いが自分のことしか考えないからだ。
・ギリシャ語には、他にフィレオーという言葉で示される愛がある。兄弟愛、友情等を示すときに使われる。人類愛と言う場合もこのフィレオーに該当する。この愛はエロスよりも広がりを持つ。1982年1月にアメリカの飛行機が東海岸で墜落したとき、乗客のかなりの人がポトマック川に落ちて、救助を求めた。ヘリコプターが何度も往復して、漂流中の遭難者を吊り上げては陸地に運んだ。1月の厳寒の川の中、まだ大勢の人が助けを求めて待っていた。そのとき、一人の男性の前にヘリコプターの降ろす吊り輪が来たが、彼は他の人のためにその輪を譲り、自分は濁流に飲み込まれていって死んでいったという出来事があった。このニュースは世界中の新聞やテレビで報道され、多くの人々に感動を与えた。彼は実に立派な愛の人だった。彼に助けられ、命を救われた人々は、きっとこの命の恩人のことを忘れないだろうし、自分もまた、彼のように他者のために愛を実践したいと思ったであろう。彼の死はまことに尊い。しかし、彼の死からは信仰は生まれない。何故なら彼が行ったのは一瞬の感情的判断であり、もう一度同じことを出来ないからだ。次の機会には彼は他人の吊り輪を取って自分が生きようとするかもしれない。英雄的に死んでいった人は、一時的には感動を引き起こしたが、その死はやがて忘れられていった。フィレオーの愛もまた限界を持つのだ。
・神から来る愛、アガペーだけが人を根底から変えることが出来る。ヨハネはその手紙の中で、イエスの死について次のように述べている。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(1ヨハネ3:16)。
・30年前のインドでは貧しさのために、治癒する見込みのない病人は道端に捨てられていた。直らない人のためにお金を使う余裕がなかったのだ。マザーテレサはこの人々を「死を待つ人々の家」に収容し、死を看取っていった。道端で死んでいく人の中にイエスの顔を見たからである(マタイ25:40)。世界中がこのマザーテレサの無償の行為に感動し、彼女はノーベル賞を受け、日本にも何度か講演に来た。彼女がインドに帰るとき、必ず何人かの日本の青年男女がマザーの話に感動し、同行してインドに行って「死を待つ人の家」で奉仕活動を始めたという。しかし、インドは暑く不清潔であり、病人を介護する仕事は重労働だ。マザーについて行った日本人たちは、何ヶ月かの後には例外なく日本に戻って来た。続けることが出来なかったのだ。しかし、マザーと一緒に働く修道女たちは、その単純で骨の折れる仕事を何年も、何十年も続けている。ある人がマザーに聞いた「何が彼女たちに力を与えるのか」。マザーテレサは答えた「私たちは朝4時のミサと夕方8時のミサで力をいただきます」。ミサとはカトリック教会の聖餐式で、彼らはパンとぶどう酒を文字通りイエスの体と血としていただく。そのミサが彼らの活力源だとマザーは答えた。修道女たちは、ミサの度ごとに「イエスが私のために死んでくれたのだから、私も他の人々のために死のう」と奉仕の生活に押し出されていくのだという(松永希久夫「イエスの生と死」NHK出版から)。これがアガペーの愛が人間にもたらす力だ。このアガペーの愛は人間からは来ない。神からいただく愛だ。この愛だけが人を根底を変える力を持つ。
3.アガペーの愛
・今日の招詞に〓ヨハネ4:9-11を選んだ。
「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」。
・ここに今日のテキストであるヨハネ15章が要約されている。神がまず私たちを愛してくれた。だから私たちも他者を愛する。私たちはそのままでは他者を愛することは出来ない存在だ。何故なら、私たちが愛するのは自分だけであり、自分の分身だけであるからだ。その私たちにイエスの十字架が示された。十字架上で自分を殺すもののために祈られるイエスの姿を見て、私たちは変えられた。十字架につけられたのはイエスの体であったが、同時に私たちの罪、私たちを他者との平安から阻害する自己愛もまた十字架につけられた。そして、私たちもまた、神からこのアガペーの愛を与えられて生きていく。その時、他者との関係もまた平安の関係に変えられていく。これは私たちの周りの人が私たちを愛するということではない。私たちの周りの人は相変わらず、私たちを押しのけ、自分のために私たちを落としいれようとするかもしれない。しかし、イエスの十字架の祈りを知った今は、そのような他者も私たちの平安を乱すことは出来ない。これがキリスト者が与えられる愛の命である。
・それは世の求める、いわゆる幸福とは異なる。幸福とは自己とその分身の幸いを求める行為だ。その幸福は徹底的に外部状況に依存する。失業して経済的安定が崩されれば揺らぐし、家族の誰かが重い病気になれば崩れる。また、幸いにも災いがなくても、やがて次第に満足できなくなる。もっとほしくなるからだ。世の幸福とは、そのように、もろい、綱渡り的な、不安定なものだ。しかし、私たちが与えられる神の平安、愛の命とは、外的状況がどのように変化しても乱されることはない。何故なら、それは私たちの内から、すなわち神から出ているからだ。この平安を受けなさいと私たちは招かれている。そして、今日、私たちは教会にきた。私たちは自分の意思で教会にきたと思っているかもしれないが、違う。イエスが言われたように「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)。皆さんは今日、神から招待を受けてこの教会に来た。豊かに実を結ぶように招かれている。どうか、神からの言葉を豊かにいただいて、この教会の門を出て行ってほしい。