1.母の日
・教会では5月の第二日曜日を母の日として祝う。これは100年前にアメリカの小さな教会で始まった行事だ。1905年5月9日に、ジョージア州の小さな町の教会で40年間日曜学校の先生をしていたクレア・ジャーヴィスという婦人が亡くなった。亡くなってから3年たった1908年5月10日に、クレアの娘のアンナ・ジャーヴィスが母をしのんで追悼の会を教会で行い、母親の好きだったカーネーションの花を捧げた。それから毎年5月の第二日曜日に母親の追悼会をその教会で行うようになり、それが次第にアメリカ中の話題になっていった。当時アメリカでは日曜学校運動が熱心に推し進められており、その指導者であったジョン・ワナメーカーの提唱で、5月第二日曜日を母の日として国民の祝日にしようということになり、1914年に当時のウィルソン大統領がこれを国民の祝日に定めた。
・日本でも1920年代には、教会で母の日を祝うようになり、やがてこれが教会外でも定着して行き、今日では5月第二日曜日は「母の日」として一般の人もお祝いし、デパートや花屋さんが忙しくなるときだ。しかし、元来この日は「亡くなった母を追悼する日」であり、母を通して命を与えてくれた神に感謝する日である。しかし、今日では、母の日が「お母さん、ありがとう」とプレゼントをあげる日に変わってしまい、死亡や離婚で母のいない人はさびしい思いをするようになったため、教会ではあまり祝わなくなった。ちなみに父の日は6月第三日曜日であるが、これは母の日の礼拝説教を聴いたジョン・ドットという人が「自分の場合は母が亡くなった後、父が男手一つで自分たちを育ててくれた」と思い起こし、父の命日に近い6月第三日曜日に感謝の会を開いたのが始めてであるという。
・先に述べたように、母の日、父の日は、本来は亡くなった父や母をしのび、自分にこの両親を与えてくれた神に感謝するときである。しかし、いつの間にか、現在の父、母にプレゼントをあげるお祭りになってしまい、父や母がいない人はプレゼントをあげられないし、また子供がいない人はプレゼントをもらえなくてさびしい思いをする日になった。私たちはこの父の日、母の日をもう一度本来の姿に戻したい。人はすべて父と母を通してこの世に生まれてくる。その父また母に感謝するということは、自分を生んで、育ててくれたことに感謝することであり、また父母を通して自分を創り生かしてくださる神に感謝することだ。これは教会としてお祝いするにふさわしいことだと思う。
・私たちを生み、育てくれたのは両親である。しかし、その両親が死んでも私たちの生は続く。両親を通じて私たちを生み、育ててくださったのは神である。今日はヨハネ6章を通して、私たちの本当の生みの親であり、育ての親である神の養いについて、学びたい。
2.パンの奇跡
・イエスがガリラヤ湖の向こう岸に行かれたとき、大勢の群集がイエスの後を追った(ヨハネ6:1−2)。イエスが病人たちを癒されたそのしるしを見て、この人こそメシヤ=救い主かも知れないと思ったからだ。彼らは熱心にイエスの話を聴いた。時は夕暮れになり、あたりには人家もない。イエスは食べるものもなく、暗闇の中に座る群衆を見て心動かされ、そこにあった五つのパンと二匹の魚で群集の飢えを満たされた。ヨハネによればそこには男だけで5千人がいたという。人々は食べて満ち足りた。そして、奇跡を起こしたこの人は神からの預言者に違いないと思い、自分たちの王にしようとした(6:14−15)。しかし、イエスは群集を避けて、船に乗ってガリラヤ湖を渡り、カペナウムに帰られた。群衆はそのイエスの後を追って、カペナウムまで来た(6:24)。
・イエスを見つけた彼らは「ラビ、いつここに来られたのですか」と聞いた。「やっと見つけました、どこに行っていたのですか」と群集は問いただした。その彼らに対してイエスは厳しく言われた「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネ6:27−28)。イエスは食べるものがなく空腹な群集を憐れまれて、彼らにパンをお与えになった。それは必要なときは父なる神が養ってくださることのしるしであった。しかし、群集はしるしが示す父の愛ではなく、しるしそのものであるパンに心を奪われていた。当時のユダヤの民衆は十分に食べることができないほど貧しく、イエスによって満ち足りるまでパンを与えられた出来事は、彼らにとっては驚くべき出来事であった。そして、その出来事に接して彼らが求めたのは「もっとほしい」という欲望だった。それに対してイエスは言われた「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)、あなた方が見たとおり、父は必要なときにはあなたにパンを与えてくださる。地上の命を支えるためにパンが必要なことは、父はご存知だ。しかし、このパンは当座の必要を満たすが、やがて空腹になってしまう。本当に必要なものは、いつまでもなくならないパン、命のパンだ。それを求めよとイエスは群集に言われた。それに対して群集は答えた「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」。イエスは答えられた「私が命のパンである。」。
3.命のパン
・「わたしが命のパンである」(ヨハネ6:35)。原典のギリシャ語を見ると「エゴーエイミー(私は・・・である)、ホ・アルトス(そのパン)、・テ・ゾーエー(命の)」と書いてある。ここで問題にされている命は「ゾーエー」としての命だ。ギリシャ語の命には「ビオス」と「ゾーエー」の二つがある。ビオスとは生物学的生命をさし、ゾーエーは魂の命、人格的な生命を指す。人間は単に生理的に生きているだけではなく、人格として生きていなければその生を続けることはできない。「生きていても仕方がない」、「生きる望みを失った」と人が言うとき、その人は動物として生きてはいても人間としては死んでいるのだ。誰も自分を必要とせず誰も自分を愛してくれないとき、人は人格的に死ぬ。人格としての生を維持できないとき、人は自殺する。人間だけが自殺する存在なのだ。地上のパンは肉の命を支えるだろう。しかし、肉の命だけでは人は生きることが出来ない。
・私たちはここで、群集が求めるものとイエスが与えようとしているものの間にすれ違いがあることに気づく。群衆はビオスとしての生命を養うために地上のパンを求めた。イエスは地上のパンは父なる神が下さるから、もっと大事なもの、ゾーエーとしての命を求めよといわれた。群集は納得していない。そして、私たちも納得していない。地上のパンを神が与えてくださる、神が養ってくださることを信じていないのだ。だから、地上の命を支えるためのパンやお金を自分で獲得するために私たちは忙しく生きる。そして地上のパンだけを追求して生きるとき、本当に必要なもの、魂のパンを私たちは失う。
・人間として生きる、人格的な命を生きるためには他者の存在が必要だ。自分が誰かに愛され信頼され、自分も誰かを愛し信頼しなければ、人は孤立しその存在根拠を失う。しかし、人間は自分たちだけではこの愛と信頼の関係を作ることは出来ない。何故ならば私たちの愛の根底を形成するものは自己愛であり、それは他者を排除するものであるからだ。私たちが人を愛するのは、それが自分の利益になるからであり、私たちが人を信頼するのはその人が自分にとって役にたつからだ。愛することが利益をもたらさず、逆に負担になるとき、私たちは人を愛することをやめる。創世記に描かれたアダムとエバを見てみればよい。エバを与えられたとき、アダムはエバを「私の骨の骨、肉の肉」と呼んで、これを喜んだ。しかし、エバが過ちを犯し、その責任を神から追及されたときアダムは答えた「あなたが一緒にいるようにしてくださったあの女が食べるように言ったのです」(創世記3:12)。また、今まで信頼していた人が自分を裏切ったとき、私は人間不信に陥るだろう。人間の愛や信頼はその程度のもので、いざとなれば崩れる。
・それは私たちのうちにあるエゴ=自己中心性のなせる業だ。聖書が罪と呼ぶものはこの自己中心性、自分以外のものは最終的にはどうでもよいとする心だ。それはすべての人が持っているゆえに原罪(original sin)と呼ばれる。この原罪が人を不幸にし、他者との争いを起こし、その結果人格的生命を蝕む。この罪を人間が消し去ることは出来ない。この罪はただ、自己を越えた愛、自分を殺すもののために祈られる方の姿を見て初めて消し去ることが出来る。だからこの罪はイエスの死を通してのみ購われることが出来るのだ。イエスがヨハネ6:40で言われていることはそういうことなのだ。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」。
・このイエスを通してのみ、私たちは神の愛に接し、その時に私たちは自己から解放され、新しい命を与えられるのだ。イエスがいなくても人生を生きることが出来る。しかし、その人生は動物としての生であり、人間としての生ではない。今日の招詞にヨハネ第一の手紙3:16を選んだ。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」。イエスを通して、私たちは神からの命のパンをいただく。私たちは肉の父と母の与える地上のパンを食べて、今日まで生かされてきた。そのパンを両親に与えてくれたのは神であり、神は地上のパン以上のもの、命のパンを与えるためにその一人子を地上に遣わし、十字架にかけ、そしてよみがえらせられた。そのことを通して、私たちは誰が本当に私たちを養い、育てて下さっているかを知ることが出来る。それが、教会が祝う母の日の出来事だ。