1.種まきのたとえ
・大勢の群衆が集まった時、イエスは種まきの例えを使って、神の国の話をされた。こういう話である。
「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道端に落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。ほかの種は岩の上に落ち、生えはしたが水気がないので枯れてしまった。ほかの種は、茨の間に落ちたので、茨も一緒に茂ってきて、それをふさいでしまった。ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ」(ルカ8:5-8)。
・パレスチナでは11月から12月にかけて、まず大麦の、次に小麦の種をまく。手で畑一杯にまき、その後で耕して種に土をかぶせるのが一般的だったという。手でまくから、種はいろいろなところに落ちる。ある種は道端に落ちた。道端は人が通って踏み固められているから、種は根を下ろすことが出来ず、やがて鳥が来て食べてしまう。別な種は土が浅い岩地の上に落ちた。土が浅いため、暖められてすぐに芽を出すが、根を張っていないため、水分も養分も補給できず、すぐに枯れてしまった。別な種は茨の間に落ちた。種は発芽し、芽は伸びていくが、茨の成長は早く、麦の芽がふさがれてしまって実を結べなかった。別の種は良い地に落ちた。肥えて水はけの良い地に落ちれば、種は根を張り、芽を出し、やがて豊かな穂をつける。あなた方はどのような土なのか、私の言葉を聞いたが、それをどのように受け入れるのかとイエスは聞かれている。
・これは教会にとっても大事な話だった。同じ福音を聞いてもある人は信じ、ある人は拒絶する。それは何故なのだろうか。それは聞く側の受け入れ方の問題ではなかろうか。11節から例えの意味の説明がなされているのは、弟子たちのこのような疑問に答えるためだ。種は神の言葉である。神の言葉が宣教された。その言葉が人々の心の中でどのように成長していくのか、私たちの教会生活の中でこの例えを考えると解りやすい。道端にまかれた種とは、閉ざされた心に語られた言葉である。人が自分の経験や観念を絶対のものと思うとき、他者の言葉を受け入れることが出来ない。日本では「宗教は弱い人のものであり、自分には関係が無い」と思う人が男性中心に多い。妻が教会に行くことには反対しないが、自分は行かない。その人にイエスの言葉が伝えられても、その種は発芽しないのは事実だ。岩地に落ちた種とは、イエスの言葉や行いを見て感動し、信じるようになるが、すぐに冷めてしまう人たちのことだ。日本では毎年数万人の人たちがバプテスマを受けるが、何年かすると教会から離れる。教会側の受け入れ態勢の問題もあるが、信仰が一時の感情によって形成され、訓練されないから、すぐに冷めてしまう。茨の間に落ちた種とは、生活のせわしさのために神の事柄を締め出してしまう人々のことである。バプテスマを受けクリスチャンになっても、この世的には学生であり、職業人であり、家庭の主婦である。仕事が忙しい、家族が反対する等のため、何時の間にか信仰から離れてしまう人も多い。
・最期の良い地に落ちた種は説明するまでもなく、御言葉を聞いて心に刻み、それを日々の生活の中で実行しようとする人々である。御言葉が紙の中だけでなく心に刻まれているから、何があっても信仰が動揺せず、それを保つ事が出来る。篠崎教会でも信仰の形の違いから牧師と信徒の間に対立が起き、多くの人たちが教会を去って行った歴史を持つと聞く。その中で教会に残って支えてくれた人々は、正に良い地に落ちた種であり、その種から新しい芽が出て、やがて何十倍もの収穫が望める希望が出てきた。
2・この話をどう聞くのか
・種が落ちた土壌は私たちの心である。私たちはすぐ、自分は良い地であろうかと考える。しかし、この話の中心はそこにはなく、良い地であるために励むことにある。最初、私たちは道端にまかれた種のように心を閉ざし、福音を受け入れなかった。しかし、ある時、御言葉が自分に迫って来て、感動してクリスチャンになった。しかしその感激も冷め、やがて不熱心になっていった。ところが、その冷めた自分を震撼させる人生の出来事があり、その苦悩の中で言葉が与えられ、その言葉が自分の人生を変える悔改めに導いた。教会につながる方の大半の方は、このような内的経験をされたことがあるだろう。それが示すことは、この種まきの例えは、私たちの信仰の成長過程を示すものだということだ。私たち自身の中に道端があり、岩地があり、茨の地があった。それが御言葉を受け入れることによって良い地とされた。だから今、ある人が受け入れなくとも心配する必要はない。私たちがそうであったように、時が来れば変えられるからだ。御言葉を聞くにも時があり、時が満ちないと聞くことが出来ない。忍耐して語り続けなさいと言われている。
・また、種が芽を出すためには一定期間土の中で暖められる必要がある。ヨハネ12章24節に次のような言葉がある「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。麦の種は芽を出すために、麦であることに死んで土の中に入らなければ芽を出すことは出来ない。一方に死があり、他方に生がある。生は死を通して与えられる。私たちの人生もそうだ。どうしていいのかわからないような苦しみが与えられ、その苦しみを通して低められ、自己を捨てるように導かれる。自分が麦であることを忘れて、種に徹した時、やがて種から根が出て、芽が地上に顔を出す。
・私たちはかって、他の人の祈りによって教会に導かれた。言い換えれば、他の人が種になって死んでくれたおかげで収穫された麦の実だ。だから今度は私たちが種として自分に死ぬときだ。具体的には、自分のための教会生活から他者のための教会生活に変えられていく時だ。自分の満たしのために教会に来るのではなく、他者の満たしのために教会に来る。これが伝道だ。ある時私たちは道端に落ち、鳥に食べられる。別の時私たちは岩地に落ち、枯れる。何の成果も無いかもしれない。しかし、最後には良い地に落ちる。その時種は芽を出し、成長していく。それは種そのものが力を持つからだ。ある本に次のような話が紹介されていた「エジプトのピラミッドの中で一つの壷が発見され、調査のために大英博物館に送られたが、館員が粗相してそれを落として壊してしまった。ところが中から種のようなものが出てきてそれを地面に植えたところ、芽を出して小麦が生えてきた。何千年も前のものですっかり干からびていたが、命があったのである」(榎本保朗「新約聖書一日一章」34頁)。聖書は2000年前にパレスチナで書かれた、旧い本だ。しかし、それは今日においても命を持つ。
・今日の招詞にイザヤ55:10−11を選んだ。神の言葉がどのような力を持つのかを述べた個所である。
「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者に糧を与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしく私に帰らない。私の喜ぶところのことをなし、私が命じ送った事を果す。」。神の言葉は命の種であり、適切なところに適切な時期にまかれれば必ず芽を出し、成長して多くの実を結ぶ。成長させて下さるのは神であり、私たちはそれを信じて自分が種になればよい。
3.御言葉の種をまき続けよう。
・先日、ある方から葉書をいただいた。差出人が空欄になっていた。文面を読むと半年前に教会に来られ、2時間くらい話をして帰られた方からである。その方は家族の問題や仕事の問題で行き詰まり、生きるのがいやになったと相談にお見えになった。名前も住所もお聞きしなかったから今でも知らない。ただ帰り際に聖書を差し上げた。その方はこのように書いてこられた「いまだ、時々は、生きる意欲をなくしそうになる時もありますが、その時にはいただいた聖書を読んで、自分自身を建て直し、新しい朝を迎えられるように励んでいます」。
・その葉書をいただいて思った「ああ、伝道とはこういうことなのだ。私たちがうまく伝えることが出来なくとも、例えば聖書を差し上げる事によって、福音の種がその方の心の中に芽を出し、成長していく。この方が将来、この教会に来られるかどうかはわからなくとも、御言葉は確実にこの人を捕え初めている。」と。この教会の牧師に招聘されてやがて一年が経つ。どれほどの働きが出来たのか、成果はどうかと聞かれた時、じくじたるものがある。しかし、今この教会は、説教を通じて、あるいは聖書研究会や教会学校の学びを通して、神の言葉を学び、それに頼って教会を形成しようとしている。もし私たちが神の言葉、聖書から離れなければ、今私たちのまきつつある種は必ず芽を出し、成長し、豊かな収穫の時を迎えることが出来る。そう信じても良いとルカ8章は私たちに告げているのではないかと思う。